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「好き」に意味はない

毎日続けているnoteと漫画、スケジュールの都合上書き溜めておいて投稿するだけの日もあるので、厳密には「毎日」ではないが、目に触れる方にとっては「毎日」に見えるだろう。
noteは8月で丸1年、漫画は来月でなんと丸4年になる。


この間、私があえてしなかったことがある。
毎日noteと漫画を投稿することに「意味を見いだすこと」だ。
何故なら、そこに意味はなく、もしも意味を見出そうとすれば、頭を掻きむしって今日にでも止めてしまうだろう。

誰かを喜ばせようとか、いつかお金に変えようとか一切思っていない。
感想やスキ・イイねをいただけば、自己承認欲求は満たされる。しかし、それも私にとっては意味がない。
意味がないのに、毎日それなりの時間を使う。その時間を読書や学びに使った方が、きっと合理的に違いない。

ただ「好き」で続けている。
好きには理由がない。
エビが好き、赤が好き、彼が好き…その好きなものに理由を挙げようと思えばきっと挙げられる。
けれど、それは本質的な「好きの理由」ではない。
「好き」は具体性を持たない。
何もない空間からポンと生まれた宇宙の卵みたいだ。

たとえ今日の記事が誰にも読まれなくても、喜ぶ人がいなくとも、私は止めるその時がくるまで、自分の「好き」を詰め込んだ創作物を世に放つだろう。
何故なら、その行為自体が好きだからだ。

制作過程において、たとえば言葉のチョイス、文章構造、線色形、そういったものに意味を持たせることはもちろんあるが、世の中にある創作物の中には、制作過程や制作意図にさえ意味を持たせず、ただ「好き」を詰め込んだだけのものもある。
それこそが本当の芸術かもしれない。
芸術の本質は究極の「好き」なのだ。

私の創作物は芸術とは程遠い。にしても、創作そのものが私は好きであり、そこは意味がない。
毎日投稿することも、それが文章や絵であることにも意味はない。
ただ好きなだけ。
「好き」に意味はない。
それで良い。

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