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推し活の極意

猫も杓子も推し活である。
「推し」という言葉は、愛するヒト・モノ・コトに対して少し軽薄に感じられて私は好きではないのだが、好きなヒト・モノ・コトに出会えて毎日が充実するのならとても良いことだと思う。特別な趣味や”推し事”がなくても、働くことが趣味ならそれは立派に日々の充実といえるし、家庭のことを楽しみながらできるなら、やはりそれも幸せな人生だと思う。

ただ、最近推し活疲れのようなことを見聞きする。
疲れの原因は様々あるだろう。お金であったり、人間関係であったり、あるいは活動そのものに疑問を感じてしまったりと、何か物事が動けばそれに伴って素敵に思えないことだってあるのだ。一定のそれは避けられないものだと思う。

それ以上に、推し活疲れに繋がるある事柄に気づいた。

一番になりたい。

という欲である。
いや、そんな卑しいものは持っていない、そんな気持ちで推し活をしていないと思う人でも、もし他人が推しから何かをしてもらったり、特別なアイテムが自分には買えなかったり、したかったことができなかったりした時に、100%純粋な気持ちでその人のことを良かったねと言えるだろうか。ほんの0.01%でも羨ましいと思うことはないだろうか。もしかして、そんな気持ちがあることを気づかないふりして蓋をしていないだろうか。

そういう気持ちがあることは、ごく自然なことだと思う。一生懸命になる程に他人を羨んだり、身の丈に合わない程のモノを買いあさったり、身体を壊す程打ち込んだりしてしまうもので、それを否定するほど私は出来た人ではない。
自分自身を振り返ってもやはりそうである。

世の中はお金を使わせるようにできている。
ある一時、アイドルの握手会の為の抽選権が同梱されたCDが大量に廃棄されていたニュースを見たが、そのような売り方は企業のCSR(社会的責任)として好ましくないと私自身は思っている。まして主たる消費者の中には未成年だっているのだ。
けれど、大金を投じて太客になったからといって、客は客、消費者であり、買い手であるのだ。

もちろん、こちらサイドも「これ、推しに関係なく好きだから」「推しとは別にしても良いと思うから」「推しの為になるから」という理由でなんとかお金を出そうとする。
ではもし、その商品を推しが宣伝してなかったら?推しが売っていなかったら?そんなふうに一旦引いて考えてみることも大事である。

つまり推し活の極意は、身の丈にあった出費や、推しの為に使う時間などの前に「一番になりたい」という気持ちに気づくことではないだろうか。
推しのアイドルのグッズを全部買いたい、推しが宣伝しているモノを全部買いたい、推しブランドの最新作を絶対ゲットしたい、あのイベントに長時間並んでも絶対行きたい、それらはすべて「一番になりたい」気持ちからきている。人より多く推しに愛され、推しに囲まれ、人から羨ましがられる、そういう気持ちがあることを自分自身で認めるところから、無理のない推し活が始まるのではないか。

人は人ではあるが、SNSが当たり前にあり、どうしても周りの様子が見えてしまい、人は人自分は自分と思うことが難しい昨今である。「一番になりたい」欲に駆られるのも不思議ではない。大切なのは、その欲を押し込めることではなく、気づくことだ。時にはSNSから距離を置くことも必要かもしれない。
そんな時、私自身は、今まで推しから多くのことをしてもらっているし、好きなブランドのアイテムをたくさん持ってるし、行きたいところには行けて、やりたいこともできている、次は誰かの番だからと思うようにしている。

楽しいはずの推し活が辛いものとならないよう、無理なく、みなさんが推し活を楽しめますように。


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