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十人多色

どれのことと言うわけではない。
「この人は何もしていない」「この人ならやるだろう」、そんなふうに人は人や物事を一面だけで判断してしまっていないだろうか。


「十人十色」という言葉がある。1人1人みな違うという意味であるのは明白だが、文字通り1人1色という意味ではもちろんない。

あんな、白ってな、200色あんねん

というように、人間1人あたり何色も持っているはずだ。

私の修士論文のテーマは匿名性とネットワークコミュニケーション(今でいうSNS)であった。その参考文献としてたのが、Joshua Meyrowitz『場所感の喪失 上・下: 電子メディアが社会的行動に及ぼす影響』である。本が手元にないので、雑な記憶を基に彼が言わんとすることを書いてみる。

君がカリフォルニアに旅行に行ったとしよう。友人にはその時のことを面白おかしく、時に武勇伝のように語るだろう。教師には、その旅がいかに有意義であったかを語るだろう。両親には旅先での美しい風景を語るだろう。

およそそんなようなことであった。
また、その著書の中で度々引用されたErving Goffmanの著書『行為と演技―日常生活における自己呈示』(だったように思う)で彼は

医者は医者らしい演技をし、学者は学者らしい演技をしている

というようなことを書いている。

相手や場に相応しいふるまいをするのは当たり前のことだ。同様に、明るくざっくばらんに見える人だって神経質で几帳面なところはある。ある人から見れば聖人君主のような人だって、別の人から見たらだらしのないクズかもしれない。
私は、自分がどんな人で、相手が私をどう見ているのかわからない。私にもいろいろな面があり、ひどくわがままな人間に見えるかもしれないし、自由に好きなことをやっているように見えるかもしれない。
”統一された自己”というものがあるようで、きっとそれは都合の良い幻影なのだ。

だから自分が見えているその1面だけで人を判断するのは、真実に対して目を曇らせることになるのではないかと思う。
今見えているもの以上のことを推測したところで、推測事態に色眼鏡がかかっていることもありうるのだ。
江戸川コナンは「真実はいつもひとつ」と言ったが、芥川龍之介の『藪の中』のように、同じことがらも人によって見え方が異なることもある。

だからどうしたら良いのかと、私にはわからない。
ただ、人や物事は1色ではないのだ。そのことを忘れてはならぬと思う。

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