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探求 第2章(算術の基礎 編(5))

コイントスの確率が1/2ではない世界はありうるだろうか。

もちろん、簡単に想像できる。

まれな確率で「親の総取り」が発生する賭博を考えてみよう。軽く、角ばった、肉厚のコインを投擲して、偶然直立したら親が掛け金の総てを徴収できる。(放った将棋の駒が偶然直立するように)

この賭けに使われるコイントスは、もはや1/2ではない。われわれがそれを1/2と言うのと全く同じ意味において、その人らは「ほぼ1/2」と言う。

そしてどちらも間違っていない。両者とも同じように正しく満ち足りた確率論を持っている。

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コイントスがひとたびわれわれの生活に組み込まれると、それはただちに「1/2」となる。そこに理由付けや、経験的な回数のカウントによる検証が入り込む余地はない。

しかし組み込まれる前の段階では、何を2択の決定ツールとして採用するかは選択の余地がある。

そこで経験的に2択に近いような、そして、普段の生活でも入手しやすいような道具(すなわちコイン)が、調停の道具として選択される。

この選択には「裏・表の出現はだいたい均等」という経験則が生かされる。また多くの人がその経験則に同意しなくてはならない。

そして最初に戻る。コイントスがひとたびわれわれの生活に組み込まれると、それは根拠なくただちに「1/2」となる。

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したがって、コイントスを「極限的な試行」に訴えて説明する仕方は、興味深い仕方で混乱している。

まず「理想的なコイン」が「理想的に投擲」されるという、ありもしない行為に訴えかけている。

この苦しい説明の正体は、「確率の根拠」という、答えのない問いに対して、説明に窮してひねり出した一種の「物語り」だ。

そしてこの物語りは、コイントスが我々の生活に組み込まれる「前段階」での、自然史の理想化された記憶からやって来ている。

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ある種の問いに無警戒に近づき、「答えなくてはならない」と囚われると、混乱が発生する。そしてひとはそれを「深くて含蓄にあふれた答え」と勘違いしてしまう。

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