探求 第2章(算術の基礎 編(2))

ケーキを6等分することを考えてみよう。

6等分だから、60度ずつ切ればよいと考える。

そこで正三角形の型紙を用意し均等にナイフを入れる。

この時、360/6 = 60という基本的な算術が、この現実を表現しているように思える。

ここでケーキの場合、この一切れは少しかたよってないかとか、あっちの方がこっちの方より少し大きいのではないか、と言うことに意味がある。

しかし360/6 = 60という算術において、「この」360/6 = 60の割り算は少し多いのではないかとか、別の「60」の方がこの「60」より少し小さいかもしれないなどというのはナンセンスである。

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したがって、算術(数式)は、その現実の適用とはるかに異なる用法を有している。

この場合の算術の適用は、型紙をあててケーキを切り分けることは、目分量で切り分けるより「不平不満が出にくい」という効果を果たす。

すなわち360/6 = 60が一種の「調停」の役割を果たし、そうすることが公平であるような一種の「儀式」の役割を果たす(型紙をあてたところで厳密に均等にケーキが切り分けられるわけではないのだから)。

ケーキの配分に型紙が便利なのと同じ意味で、ケーキの配分に割り算が便利に利用される。

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この3とあの3の違いを区別することはナンセンスである。

それは「3」が理念的で唯一な存在としての数字の3を指し示しているからではなく、「この」といった特定化を排除している「力」が働いているからである。

すると人はこういいたくなる 「では、「力」とはいったい何なのか?」

しかし「何なのか」という問に常に答えがあるとは限らない。

なんなのかと問うよりも、「いかにして作用しているか」を問うべきである。

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数学はいかにして現実に到達するのか。

ロケットの設計に複雑な数学を用い、完成させ、発射した。しかし途中で爆発してしまった。

そのとき人は、ロケットの設計計算にミスがあったと考える。

しかしこうもいえる。ロケットの設計にわれわれが利用してきた数学はつねに「1+1=2」だが、実は自然界の正しい数学は、月と地球と冥王星が一直線に並んだ場合のみ「1+1=3」となるものだったのだ、と。

そしてロケットが打ち上げられたとき、偶然月と地球と冥王星は一直線に並んでいたため、誤った数式が適用され、爆発してしまったと。

このようにしてわれわれはいつも、現実の失敗を「われわれの」数学の誤りと無限に解釈することができる。つまり数学と現実をいつもすれ違わせることができる。

しかしそれでもなおある種の数学が現実の中の歯車でありうるのは、人がそれを一貫して適用するからであって、数学が世界の真理の表現であるからではない。

いやもっと正確にいえば、数学が世界の真理の表現である「必要はない」

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コインを投げた際、表が出る確率は裏と等しく2分の一。

--しかし、どのコインにだって裏表の微妙な形のばらつきがあるのであり、実際には、4.9999999999 対 5.00000000001 の確率かもしれない。

--すると君は、1万回コイントスした場合、5001回表が出て4999回裏が出たら、実はコイントスの確率は2分の1ではなかったと証明された、とでも言うのだろうか。

-- いや、2分の1であるというのは、理想的な状態のコインが、理想的に投擲された場合の、回数の極限をとった場合の確率なのである。

ここに、永久に論駁されない主張の例がある。永久に論駁されないという、いってみれば咬み合ってない歯車の不具合を、「非常に確からしい真理」と勘違いしてしまう、一つの言語的錯覚。

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