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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第2章

その4(第1章からの続き)
そしてこの塾で待ち受ける最大、最悪のルールが次である。

   中学に入る前に、男子は全員10円ハゲがあろうとなかろうと、頭の形が良かろうと悪かろうとに関係なく、坊主頭になることを強制された。いかに昭和40年代であったと言っても中学校で坊主頭を強制していたところは市内でも2割ほどしかなかった。ましてや私が行くことになっていた青園中学校はそのような指定は無かった。強いて言えば野球部くらいのものであった。にもかかわらず、これは冨丘塾の伝統であり恒例行事なのだが(謂れは全くわからない 聞いた覚えもない)基本的に三分刈り(約6㎜)にするよう義務付けられていた。そのタイミングがまた微妙で、小学校6年生の秋頃に儀式が始まる。しかも〆切も決められておりそれまで個々に床屋でばっさりやらなければならないのである。お洒落に目覚める年齢には少し早かったかもしれないが、そろそろ格好が気になり始める年頃でもあり、異性の目も意識し始める時期でもあった。もちろんこの冨丘塾の過酷な行事のことは以前より知っていたが、いざその時期が来るといたく動揺した。それは口にこそ出さないが私だけではないようだった。

   第一号の犠牲者は上田正明であった。どういういきさつでそうなったか定かでないが、その日は先生がバリカンを持って部屋に現れ「一人だれか頭を刈ってやる 床屋代が浮くぞ‼」と始まった。当然男子たちは言葉を失いつつ、周囲をけん制しつつ・・この空気に耐えられなくなったのか少し間をおいて上田が手を挙げた。「よし‼上田か!」そう言った意気揚々とした先生の楽しげな顔。上田は空気を読んだのかもしれない。普段は物静かだが、そういう勇気のある男でいつも皆に一目置かれていた。先生は鼻歌まじりに新聞紙を広げて即席の床屋を始めた。観念して新聞紙の前に首をうなだれた上田は見ようによっては斬首される武士状態であった。皆の注目の元でこの神聖な?儀式は断行された。女子は全員、初めて見るこの光景に好奇の目を輝かせて凝視していた。上田のやや長めの形の良い7・3分けの髪に遠慮なくバリカンが食い込む。だんだん地肌が見えてくる。3分刈りは思っていた以上に短い。まさに坊主である。すぐ間近にその頭があった。他人事ではないので、私も恐怖の中で息をのみながら見つめていた。男子は皆一様にそうであった。先生は相変わらずとても楽しそうであった。そして右半分終了、そのあと左半分終了。最後に真ん中が残された。いわゆるモヒカン状態である。と先生が一言「はい!今日はここまで‼!」そう言った瞬間、上田は「えっ!?」と叫んだ。その時皆の緊張が切れた。大爆笑の渦、やんややんやとはやし立てる。上田は青醒め涙目になり、先生はずるい顔で笑っている。「ほら頭を下げろ!」と先生が言うと、最後のモヒカン部分もきれいに刈り取られ見事な坊主頭の出来上がりとなった。全員で拍手喝采。こうして恒例の儀式が遂に幕を開き、日を追うごとに一人、また一人と坊主頭になるものの数が増えていった。そのたびに塾生皆で笑いながら頭を叩きあっていた。

   しかし、私は最後まで躊躇していた。もともと潔さもなく、男らしさもなく、嫌なことは後回しにするという性分なのでぎりぎり〆切近くまで刈らないでいた。そこは先生見逃さず「いつまで切らないでいるんだ‼」と私を含め3人ほどの生徒は叱られたのである。そして〆切が明日に迫った日の夕方、母に尻を叩かれながら覚悟を決めて閉店直前の床屋に行った。私が悲壮感漂う雰囲気で訪れたためか、いつもはにこやかな好青年の床屋のお兄さんが怪訝そうな顔で出迎えてくれた。理由を言うと「いいよ。もう時間だけど座って…」と言ってくれた。床屋の椅子の前の鏡の中の私の髪の毛を見つめながら、しばらくの間おさらばだな、と心で泣きながら、顔は激しく引きつっていたと思う。お兄さんは特に言葉もないまま淡々とバリカンを当てていた。作業は20分くらいで無事終了。いざ坊主頭にしてみると、長かった髪の毛で隠れていたオデコ辺りが完全露出したので顔全体が露わになり、それでなくともやや小太りな下膨れの顔がそのまま栗饅頭のように映っていた。スースーするその頭を野球帽で隠しながら、とぼとぼ帰宅した。家に入るなり母は「あら いいじゃない!」と無責任に讃えた。父は「ほぅ…」と言ったきり珍しいものを見るような顔で、それ以上は何も言わなかった。とりあえず中学前の元服の儀式は無事に終了した。

   次の日、冨丘先生は上機嫌で皆の頭を見渡してよしよしという感じで頷いていた。「伸びてきたらすぐに切ること!3分刈りだぞ!」と強い口調で念を押した。さて問題は小学校である。次々に毎日のように各クラスの塾生たちが坊主になるのだから学内では話題騒然。ほぼ男子にも女子にもゲラゲラと笑われる始末。仲の良い女性教師はわざわざ廊下ですれ違いざまに、私の頭の上で掌をかすらせ「あっ 滑った!」と言った。苦笑いとも泣き顔ともいえない顔でへらへらしている自分が嫌だった。これって、いまならアカハラ、パワハラになると思うが、親はもちろん小学校の教員もそろって肯定していた冨丘塾恒例の儀式なので、そのまま受け入れられた次第である。とほほ。余談になるが、この坊主頭になることに刺激を受けた塾とは無関係の男子クラスメートの何人かが、卒業を前に一緒に坊主頭になってくれた。それは嬉しくもあり面白い現象でもあった。

その5

 とまあこの塾独自のルールを挙げるとまだまだあるのだが、これらの過酷なルールのもとに、ほぼ週の大半を塾通いに費やしたわけである。その割には相変わらず私は努力の嫌いなダメ生徒だったので、学校の成績は一進一退であり一向に伸びる兆しはなかった。自身のだめぶりは他にもあった。学習ドリルのカンニングである。この塾では小学校時代は算数と理科と国語のドリルを使った塾の中の定期試験が行われた。これが結構難しく、またドリルは解き終わったら塾に置いて帰る決まりなので、先に解くことも許されない。そんななか、確か算数だったと思うが苦手で苦手で、答えを殆ど埋められない。特につるかめ算や旅人算はさっぱりわからない。このままでは果てしなくビンタされるに違いないと、目の前が真っ暗になった。
 その日は何とかしなくちゃと焦る中、ドリルの巻末に解答のページがあることを思いだした。いつも終わったらこの回答を見ながら皆で答え合わせをするのであった。先生はうつむいて本を読んでいる。皆は必死でドリルに向かっている。私は、後ろのページをそっとずらしながら解答のページをのぞき込んでは、すぐに戻すのを繰り返した。ばれないように、それは相当な緊張感を伴い、また制限時間もあるので冷や汗がだらだらと流れた。特に、隣の生徒にばれないようにやらなければいけない。必死であるが完璧なカンニング、不正行為である。恥ずかしいし潔くない。でも…恐怖の想像はこれに勝る。そして、そのまま何とかバレずに終了し、間違いは幾つかあったもののギリギリ及第で、その日のビンタは免れた覚えがある。もちろん毎回は不可能である。身が持たない。その後のビンタ歴の方が圧倒的に多かった。しかし成功?体験だけに今でも鮮やかに思い出せるが、やっぱり自力で解かなかった後味の悪さはずっと残っていた。

 このようにして小学校4年の終わりからまずは6年の卒業まで塾の日々が続いていった。案の定、学校内では塾生と他の生徒との距離が生まれていた。冨丘塾に行っている奴ら、という差別とまではいかないが異質な別行動、特殊行動をしている「がり勉型のグループ」と認識され、一部の生徒たちから違和感を持たれていた。だが私はその辺は割と無頓着であったから、数年後かつての同級生から「お前ら冨丘塾に行っていた奴らってさ、なんとなく好きになれなかったんだ。でもなぜかお前だけは別だったけどな」そのように言われた覚えがある。おそらく出来の悪いへらへらしている私は彼らの敵にはならなかったのであろう。嬉しいような、それはそれで情けないような気もするが。

 小学生のうちは皆遊び盛りの子どもである。だからすぐに脱線する。その日も塾で何か課題を出されて、そのあと先生が席を外すと、当時から大人でませガキであった川﨑健治が、よく冗談を言って皆を笑わせていた。私がそれに乗っかって最後までウケを狙って騒いでいると、その声に先生が怒りながら入ってきてすかさず私はビンタされる。「お前の声が一番うるさい‼」 火付け役の健治は素知らぬ顔で机に向かって鉛筆を走らせている。「そっ そんなぁ…」こんな理不尽はしょっちゅうであった。
 さらに、ビンタされて塾を辞めていった女の子もいた。井上さん。彼女はよくうそをついた。成績もよくなかった。テストも隠して先生に見せなかったりしていた。でも話すと楽しい子だったし塾の帰りとかに男女で他愛もない遊びに興じる時は一番の人気者であった。よく「いのババ!ゴリラの親戚‼」と言ってはやし立てる男子を「ちっ!」と言いながら全速力で追いかけていた。そんなある雨の日、彼女が母親と傘をさしたまま塾の玄関先で先生と長く話していた。ずっとうなだれていた。そしてそのまま部屋に入らずに帰っていった。多分、先生のビンタや指導に耐えられなくなって辞めたのだろうと思った。その日から彼女の席がぽっかり空いて、無性に寂しかった。先生は「井上は今日で辞めたから…」そう言っただけだった。でも内心先生も辛かったと思う。塾は勉強するだけの場所ではないと思いつつ、誰が悪いわけでもないけど、その後程なくして彼女は転校していった。
 彼女以外にこのような辞め方をした生徒はいなかったような気がする。他の学年はわからないが。ただ先生は良く辞めていく生徒のことを「沈没したな」と言っていた。先生の中での割り切り方、諦め方なのであろうか。沈没とは文字通り人や船が海に沈む表現である。単に辞めるというなら、それは事情はともあれ本人の意思でもあろうし、親や先生の説得の余地もあろう。表現に敢えてこだわるならば「沈没」は救えない状況である。水中に沈んで見えなくなる船に準えるなら、諦めざるを得ない状況の覚悟の言い換えである。先生がどのような意図で沈没という表現を用いたのかはわからないが、二度と戻らないという先生なりの厳しい思い、諦観から出た言葉なのかもしれない。

 土曜日は弁当で直行の日であるが、先生は機嫌のよい時に、皆の持ってきた弁当をひとさし指をくわえながら(もちろん演技で)茶化して回るのが好きだった。「美味しいのぉ?何食べてるのぉ?」こんな感じである。おかずの品定めをしてふざけながら羨ましがっている風だった。一度、私はそのやり取りに何故か耐えられず、本気で「先生も食べますか?」と訊いてしまったことがある。ところが実際にさし上げようとすると、真顔で「まさか…食わないよ」とそっけなく断られた。先生が冗談でやっていると分かっていても、その拒否は子供心に少しだけ痛かった。いけないことを言ったかなぁ…先生の冗談をマジで返してしまったからかなぁ…とその反応をしばらくの間くよくよ考えていた。

 夜の時間帯や日曜日に塾に通うときはもっぱら自転車を使っていた。皆街中の子どもであったため、自転車を持っているのは割と普通であった。ただ私はオクテで、恥ずかしながら6年生になって初めて乗れるようになった。クラスのリーダー格の奴が「これから北里が自転車に乗れるようになるまで指導する」と高らかに宣言し、人の迷惑も顧みずクラスの男子たちをけしかけて、嫌がる私を近くにあったお寺の広場まで引っ張っていった。そして暗くなるまで集中特訓教習が開始され、今思えばありがたいことだが、その日のうちに何とか乗れるようになった。当時はスポーツ車と言われていたサイクリング自転車ブームであった。早速念願のマイナーメーカーだが知る人ぞ知る「ケンコーアブ」というセミドロップハンドルの自転車を父に買ってもらった。そしてそれに乗って、颯爽と?塾に通い続けることになる。

 先生が生徒を呼ぶときは結構あだ名(独自のニックネーム)が使われた。私も名付けられた一人である。その名も「三平」である。嬉しくない。理由は定かではないが、落ち着きのなさやすぐおどけたりする様子を見て当時人気のあった「林家三平」に準えたものであろう。故三平師匠には申し訳ないが。だから先生の機嫌のよいときには「三平!」と呼ばれていた。全く気にいってはいなかった。塾以外で呼ばれることもなかった。ただし塾に通う上級生の女子たちにだけは「三平ちゃん♡可愛い~」などと揶揄された。私は体格も貧弱で、はにかみ屋のオクテであったから、そんなときは居たたまれなくて、制帽を目深にかぶり真っ赤になって走り去っていた。そんな様子をいつも先生はニヤニヤしながら見ていた。とんだ三平ちゃん♡であった。

 塾では毎回ほぼ二時間授業が行われていた。次の学年が待っていることもあり、終わると先輩や後輩たちと入れ替わるのである。その中に顔見知りがいる時もあり、2学年下に信ちゃんの妹の美紀ちゃんがいた。幼馴染なのでむかしから私のことを「ひろしちゃん」と呼ぶ。この日も大きな声で「ひろしちゃん!」と呼ばれ、いつものように「おー」と手をあげて応えたら、おり悪く先生が聞いていて「美紀!ひろしちゃんでないだろう!北里さんだろう!」と怒鳴られた。美紀ちゃんは、しょんぼりとなりとても気の毒であった。これも冨丘塾のルールの厳しさである。

 そうそう、先生の子どものような素直な一面が出たエピソードを一つ。昭和43年の秋、我々が小学校5年の時、当時の昭和天皇と皇后様が北海道にご視察に来られたことがあった。そしてこのA市にも立ち寄られた。普段から、先生は主義主張を強く我々に押し付けるというひとではなかったが、天皇のことを揶揄して「バカ天」とか「天ちゃん」とか言っていた。保守的な方は立腹されると思いながら、そこはおそらく先生のことだから、自分の嫁のことを「女中」と呼ぶのと同じような感覚であったと思う。我々も「また言ってる」くらいの受け止め方で流していた。

 ところがこのご訪問された当日、先生はわざわざお召列車で来られた天皇、皇后両陛下のご尊顔を拝しにA市駅まで行っていたのである。そして両陛下の乗られた高級の黒塗り車を道路わきから眺めていたようである。それがわかったのは、その日の夜の授業の冒頭で、一部始終を話され(もちろんバカ天などとは言わない)「天皇皇后の車を見ていたら、皇后さまが僕の顔を見てにっこりとほほ笑んだんだ!目が合ったから間違いない!!」と興奮冷めやらぬ様子であった。「よっぽど嬉しかったんだね」後で、皆で笑いながら話したが、その興奮ぶりは単純に子供そのものであった。以降、バカ天とは言わなくなったような気がする。


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