自分の時間を生きること。
「死」とは何か。
普段はそういうことを考えない。考えないようにしているのではない。身近に感じていないと言った方が正しいかもしれない。
しかし先日ネットで見て、そして昨日書店で見て手に取りたくなった本がこれだ。
「DEATH」「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義
シェリー・ケーガン
単純にタイトルとデザインが惹かれるものだったのも要素のひとつだが、なぜこの本が買ってしまうほど気になったのだろうか。
母親も歳をとってきた。年末ぐらいしか実家に帰らないから「あと何回一緒に年越しができるのかなあ」とたまに思うようになった。
特に昨年は自身の変化も大きく過去のしがらみにとらわれずに、やっと人と人で母と話せた気がしたのでいつか終わってしまうことがより寂しく思えた。
「死」を以前よりも少し身近に感じるようになっているのかもしれない。
そして僕自身が「生きる時間」について考えるようにもなった。
考えなしに目の前のことに飛びついてきた20代。一瞬だけ花が咲いてもあっという間に枯らして花壇をいっぱいにできなかった。
昨年学ぶことが多くあり、もったいない時間の使い方をしていたことを思い知った。
だから30代は自分の時間をもっと大切に使えるようになりたい。ガムシャラになれてもその力が余計なところに分散してしまったら無駄になってしまうのだ。
光を考える時に闇が必要なように「生きる」または「残り時間」について考える時、「死」について考えることは必然になる。
この本を手に取ったのは「人生を大切に生きたい」と心から思い始めている証拠なのだろう。
レジで会計をする時に「この本は完全翻訳版ではなく人気の部分だけを抜き出した縮約版ですがいいですか?」と聞かれた。
それでも十分 分厚いし「死」について考えたことのない僕には面白いだろうと縮約版を買うことにした。
しかし「完訳版がありますよ」と言われたら気になるのが性というもの。
気づいたらAmazonレビューを見ていたのである。
レビューを見る時は「どんなものか知りたい」というよりも買いたい、買いたくないどちらかの気持ちがもうある上でそれを「後押ししてもらいたい」場合がほとんどだ。
レジでの親切な助言により不安になってしまった僕は、縮約版を買ってよかったと思いたかった。思わせてくれる言葉をレビューから探そうとした。
レビューの評価は賛否両論、星一つのコメントが上部に多く表示されている。「大切な形而上学パートがカットされている」という理由が多かった。
正直「形而上学」が何なのか、それどころか読み方さえ分からない僕には必要ないようにも思えたのだけれど、分からないからこそ大切ならちゃんと載せておいてほしいとも思った。
改めて冷静に見てみると星5つが一番多いから悪くはないのだけれど「買ったことを肯定してほしい」という目的に対しては不安をあおる結果にしかならず、もう買ってしまったのに損をしてないか帰り道で気にしていた。
ちなみに形而上学は「けいじじょうがく」と読む。
「形而上の存在を扱う、哲学の部門。現象界の奥にある、世界の根本原理を(純粋思惟や直観によって)探究する学問。」
という意味らしい。
なるほど。形而ってなに?
形而:『易経』繋辞上伝の一節。「形而上者謂之道 形而下者謂之器」に由来する表現。通常は「形而上」「形而下」「形而上学」などといった言葉の中で使われる。
なるほど、分からん。易経ってなに?
易経:中国、周代の占いの書。五経の一。経文と解説書である。陰と陽を六つずつ組み合わせた六十四卦によって自然と人生との変化の法則を説く。
五経:儒教の教典のうち最も重要な五種の書。易経(えききよう)(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・春秋(しゆんじゆう)・礼記(らいき)。
つまり
儒教の経典のうち最も重要な五種の書の中のひとつである、陰と陽を組み合わせて自然と人生の変化の法則を説いた「易経」の中の一節に使われる「形而上者謂之道 形而下者謂之器」から来ている表現。
ということ。
そして通常は「形而上」「形而下」という使い方をするらしい。
形而上:精神や本体など、形がなく通常の事物や現象のような感覚的経験を超えたもの。
形而下: 時間・空間の中に、感性的対象として形をとって現れるもの。
ここから導き出すと
形而:感覚や感性のこと。
となる。
「形而上者謂之道 形而下者謂之器」の意味も「形の上のものを道と言う、形の下のものを器と言う」だ。
まとめると
形而:感覚や感性のこと。
儒教の経典のうち最も重要な五種の書の中のひとつである「易経」(陰と陽を組み合わせて自然と人生の変化の法則を説いたもの)の中の一節から来ている。
形而上学:形而を超えた形のないもの(できごと、精神、神様)を追求する学問。≒哲学
形而下学:形而で感じることができる形のあるもの(物質)を追求する学問。≒物理学
ということになり
「大切な形而上学パートがカットされている」は「死を追求する哲学に対する項目が書かれていない」という意味として書かれていることが分かった。
だがこの本は最初に作者自身の哲学を偏っているのを承知で書いているというようなことが明記されている。
まだそこしか読んでいないので完全な憶測だが、全体を通しての学問としてではなく一個人の「死」についての考え方が書かれているということではないだろうか。
格好つけずに表現するならば「めっちゃ調べて書いたブログ」みたいなものか。
それならば非常に楽しみだ。誰かの死についての考え、研究に触れることで僕の新しい考えが生まれるだろう。
こうして書いていたら読むのが楽しみになってきた。
他人のモノサシでものごとを考えやすい時代になった。
インターネット上では価値観が簡単に可視化されて味方を見つけやすくなった分、ちょっとした不安があると寄りかかりたくなったり流されそうになる危険性もある。
自分が知らないものを知っている人がいる。教えてもらいたくなる。
口コミやレビューを見ることが当たり前になると「失敗をしないため」の行動が増える。もう中身が見えないと物は売れにくい。福袋も内容を公開しているものが増えた。
果たしてそれでいいのだろうか。
学生の頃、古本屋で中古のCDを適当に買って全然好きじゃなかったらとても悔しかった。もちろんその曲は覚えてないけれど、買ったCDがハズレだったこと自体が「こんなことあったなあ」としみじみできる思い出になっている。
相手のことが分からなくて摩擦が起きた時、ものすごくしんどいけど仲直りした後は大いに笑える思い出になる。
人生という大きな単位で見てみれば「失敗」というイベントがない平坦な道は楽しいのだろうか。死ぬ時に納得できるだろうか。
自分の「形而」で選んだもの、信じたもので「ダメだったー!」と思うことの方が豊かなのではないか?
読んでもいないのに他人のレビューを見て大切な時間や目の前のことを取りこぼしていく。それは自分の人生を生きていることになるのだろうか。
そんなことを考えさせられた本のタイトルが「DEATH」だった。
奇しくも。
読んでくれてありがとうございます:-D
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