「なくなるか分からないから」じゃなくて

先輩のシンガーソングライターが音楽活動を終了するみたいです。

バンドが解散する時、芸能人が芸能界を引退する時、誰かが「自分の意思で」何かを辞める時には「そうかあ」と思うようになりました。

人生は決断の連続。どういう方向であろうと自分が覚悟を決めて選んだことならば「いいこと」だと思うからです。


もう10年ほど前になるのですが、通っていた専門学校の近くにラーメン屋がありました。店主のおっちゃんは気のいい人でいつもアイスをサービスしてくれました。

でもある日、前を通ったらラーメン屋はベトナム料理の店になっていたんです。何で潰れちゃったんだろう。おっちゃんは元気かな。今でも思い出すと無情の切なさが布にこぼれた水のように胸に滲みます。

おっちゃんがどんな理由で店をたたんだのかはわかりません。いい理由だったらうれしいけれど、そうせざるを得なかった可能性もあります。突然潰れた店なんかを見るとその可能性の方を勝手にイメージして寂しくなってしまうのです。


いわゆる大切なお知らせには「そんなに応援してくれてる人がいたの?」と驚くぐらいの反応があります。

解散ライブにたくさんの人が集まってくれてうれしい。反面、いつもこれだけの人が来てくれていたら解散しなくてよかった。

という話はあるあるで、普段のライブにどれだけお客さんが来てくれるかが、活動を左右する大きな要因の1つだと思っています。

ワンマンに200人集まっても、普段のライブ動員は2人。という状況が続けばどうしてもいい未来が想像しにくいです。

生活で例えるならたまに起こる超ラッキーよりも1日1日に確かな幸せを感じられる方が人生に充実感を感じられるものではないでしょうか。

だから終わりの瞬間には「いつなくなるか分からないから、会えるうちに会いに行こう」という言葉がどこかで生まれます。


でも僕はどうしてもそういう感覚を普段から持てません。

「なくなるか分からないから」じゃなくて「会いたいから」会いに行きます。
「なくなるかもしれない」と感じるから「会いたい」と思います。

おかんも歳をとってきて身体も強くなくて、そう遠くなくお別れが来ると分かっているから年末だけでも実家に帰るようになりました。そういう感覚です。

「いつなくなるか分からないから、会えるうちに会いに来い」と言われると僕は萎えてしまいます。終わる意思や覚悟のない人が終わりを武器にすると切り裂いてしまうのは「会いたい」ではないでしょうか。

だから僕は「会いたい」を作ることを目指していきたいです。

それを作り続けていれば、見逃したくないと思ってもらえるかもしれない。見逃せば「なくなってしまう」と感じてもらえるかもしれない。それが一番幸せかもしれません。


辞めることを知って多くの人が反応してくれるのは、大きかれ小さかれその人の中に自分の場所があったということです。

でもそれぞれに生活環境があり、性格もあり、触れる情報にも差があります。

僕だって友達の誕生日をSNSやLINEのタイムラインで知ることの方が多くなりました。仲のいい音楽仲間の大事なイベントを終わってから知ることも増えました。

人には優先順位があって、最初のいくつかで意外と容量を使い果たしてしまっています。資源も行動量も記憶力も。

たまたま誕生日やライブの情報に触れて「思い出す」から、忘れていた場所が輝いたり潤ったりする。きっかけは自分で作って、優先順位を前にしてもらえる活動をするのが健全な気がします。

誰かのせいにしないこと。

終わらせるにしても続けるにしてもそれって大きなポイントになると、ずっと人のせいにし続けてきた僕は思います。


読んでくれてありがとうございます:-D

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