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ドサクサ日記 6/24-30 2024

24日。
ライブハウスツアーが発表になった。コロナ禍にあって、ライブハウスの存続や維持になかなか協力できなかった。クラファンのリターンのドリンク券が貯まって、ドリンク券富豪のようにもなったが(期限切れで消滅)、実際に演奏に出かけて支えたいという気持ちがあった。随分と遅くなってしまったが、ライブハウスは我々のような音楽形態=バンドにとってとても重要な場所で、このタイミングで回ることには意味があると考えている。ただ、何度目かのコンサート動員が増えるタイミングと重なってしまった。BUNTAIを含めて「チケットが取れない」という声に対しては申し訳ない気持ちでいっぱい。コンサートを企画している人たちもその道のプロで、ここ数年の動向から会場のキャパシティを考えているはずだけれど、いろいろな状況の変化が重なっているのだと思う。例えば、週末のライブ会場を押さえるには、随分早くから計画しておかなければ難しい。体感的には、1年前では遅い。2年後に訪れる結成30周年のライブも、来年の今頃考えたのでは会場を押さえるのも難しいだろう。日時を特に指定せず、空いている日を探すならば可能かもしれないが、意図する日程があるのなら厳しい。コンサート自体が増え、土日に集中していることも要因のひとつ。時代の変化のなかで相応しい方法を考えたい。

25日。
夜中にうっかり屁を放いたら苺の匂いがした。家庭ゴミはいろいろなゴミが混ざることで、誰しもが思い浮かべるようなゴミ臭になっていくのだと思う。8x4を吹きかけることで増強される体臭があるように、匂いというのは掛け合わせがとっても難しい。それは人体の内臓内においても同じことで、消化というのは溶けて混ざった飲食物と死んだ細胞の集合体なので、基本、苺の匂いがするわけがない。奇跡。

26日。
もう少し身体が大きかったらなと思うことがある。例えば、肉饂飩を注文する際、一緒に白米と温泉卵を注文し、饂飩の上に乗る肉や五葷の類を白米に乗せ換え、その上から温泉卵をぶっかけてミニ牛丼を作りたい。しかし、そうすると白米の量が多すぎて胃が爆発してしまう。全部大盛り、卵2玉はペロリくらいの身体なら爆速の幸福が得られる。が、俺は小さいので、少量をよく味わう以外にない。無念。

27日。
有楽町の「I'M A SHOW」というホールで藤巻君とライブ。ホールの名前は「会いましょう」と読むそうで、それだけで骨の髄から脱力して、新橋あたりの側溝から東京湾に流れ出そうな気持ちにもなるが、音響や雰囲気などはとても素敵だった。彼と会うとどうしてもレミオロメンの復活を願ってしまう。俺はそれをMCで言ったりするので、ファンの皆さんも苦々しく思っているかもしれない。しかし、メンバーが亡くなったり、バンドができないような健康状態になって、活動再開が叶わない人たちも世にはたくさんいる。俺たちも、いつまでもバッキバキに身体が動ごくわけではないことを意識せざるを得ない年齢になった。もちろん、彼らにも、彼らの人生がある。それはそれぞれに切実で、外野の僕らには想像もつかない。でも、やっぱり、下北で初めて見たレミオロメンの、奇跡のような輝きは忘れられない。

28日。
スカパラのアニバーサリーツアーにゲスト出演。最高の夜だった。いろいろな時代を経て、世界中を旅して、ここまで朗らかな境地に辿り着いた先輩たちが居るということが、どれほど豊かなことだろうとしみじみ思う。ストイックなのに包容力があって、格好良くてどこか可笑しい感じもする。相反する性質を全部抱きしめながら、音楽で解放してくれる。Good New Timesでは、歌いながら鳥肌が立った。

29日。
神宮外苑の再開発の再考を求める集会の呼びかけ人になった。情報を開示してブラックボックスに入れず、時間をかけて話し合い、ベターな選択してほしいという願いに尽きる。一帯は私有地を含むけれど、神社のような性格の団体に「私」という感覚は似合わないし、外苑の景観をコモン=公共の財産と考えるのは、間違いではないと思う。一方で、管理や維持に費用がかかるというのはもっともで、それこそ、数十億円もかけて都庁にプロジェクションマッピングをするのではなく、そうした費用を管理費に充てて、景観を保護していく必要があると思う。壊したものは簡単には戻らない。新国立競技場のまわりのヒョロヒョロの樹木が、外苑の立派な木々のように繁るには、その木々の歴史と同じく100年の年月がかかる。樹木を残しながら、素敵な外苑にアップデートする方法を「東京」は見つけられると思う。

30日。
都知事選を思う。小池百合子の続投になるとかなり辛いのではと思う。低い投票率で、無関心がゆえの現状維持のようなかたちだと、よくない方向に都政は進む。政治に対する不信感が募るこの状況でも信任されるのであるならば、今後はほとんどフリーハンドでなんでもできると思うのが権力者の常で、僅差だったので市民の役に立つような政策を考え直そう、みたいな回路ではなく、対抗する勢力が掲げていた政策は善良でもひとつひとつ潰して「排除しよう」となるのではないかと俺は想像している。その点では、蓮舫のほうが市民の声を聞いてくれそうな印象がある。誰が選ばれても、市民の声に耳を傾けるように、選挙の後も政治や社会に参加する必要があるのだけど。そうした市民の社会参加と共に歩むリーダーを求めて、育てるというよりは我々も共に勉強していかなければならないと思う。頼むよ、東京。

仕事の合間に寄った森美術館のシアスター・ゲイツ展。民藝のような考えには賛意とやや角度の違う感情(時に一般化と匿名性を強いているようにも感じて)をそれぞれの熱量で持っているが、そういう思索を喚起してくれる素敵な展示だった。人類の歴史や歩みも含めて。