見出し画像

ドサクサ日記 1/30-2/5 2023

30日。
疲れてくるとラーメン二郎系的なラーメンを食べたくなる。胃腸にとっては量といい塩分といい脂といい、はっきりと迷惑行為で、少食の自分にとっては軽い自傷行為と呼んで差し支えないと思う。しかし、メンタルの側面から考えるとポジティブな効果もある。食欲には抗いようのない性への肯定感が漲っている。腹減ったぁ、ついでに死にてぇ、みたいなことにはならない。俺と俺の身体は生きたいのだ。

31日。
藤原辰史さんと『アメリカン・ユートピア』を観た。歴史学者の視点は自分とは違う角度で面白い。音楽がダイバーシティを核心に含みながら、演者がユニホームを来ていることの背反性。強調されるホームやハウスは、ナチズムや失敗した共産主義の標語でもある。どこか自嘲的なデイヴィッド・バーンの複雑に入り組んだ表現は、答えというより問いだろう。とても有意義な話をたくさんすることができた。

2月1日。
地下室にて音楽制作。長らく詩作を行っているので、自分に文学的な側面があると思っている。しかし、小説家との作業中に極めて写実的な日本語で音楽についての要望を受けたとき、はっきりとフリーズする自分にとても驚いた。具体的に言えば、音楽的な場面を精密に言語化されてもまったく理解できず、どこの小節の何拍目かを伝えてもらわなければ、作品のどの部分を指しているのかが分からなかった。なんでもないことだけれど、これはとても大きな発見で、俺は音楽の時間を数学的に捉えていて、そのうえで音響的な装飾を音やテクスチャーとして把握し、日本語として言語化するのはほとんど最後のほうなのだ。音楽を編集するとき、演奏するとき、俺は言葉を使っていない。ステージ上で考え事をしていたら、楽曲が終わっていたことがある(これは時間の不思議でもある)。もしかしたら言葉を忘れて、音として歌っている瞬間もあるのかもしれない。歌詞をはっきりと歌っているにも関わらず、だ。言葉を感覚にまで解体して、音として扱う。そういう順序もあるのだという驚き。そういう意味では、こうして書いている言葉には音がない。書きながら自分で発語している気もするが、基本的に発語は読み手のもので、そこに齟齬が現れる。リテラシーとは、その齟齬に敏感であること、でもあると思う。

2日。
地下室での作業は続く。自分が演者であるときよりも、エンジニアやスタッフといった演者の一番近くでパフォーマンスを支える立場のときのほうが、何かトラブルがあったときの精神的な振り幅が大きいように感じる。吹き出す汗も尋常ではない。いつもなら簡単にわかるようなことから、焦りゆえに遠のく。しかし、別の解決策によって難局を乗り越えた直後に、頭に乗せたメガネのように発見される。

3日。
その昔に買っておいた謎の機材や楽器がふとした瞬間に活躍する嬉しさ。ブリコラージュ的な発想ではあるが、それは手元に何かがあったからこそ。普段は整理下手な性質の一端としての、モノを捨てられない性分に辟易としていたが、こういうときには物持ちの良さとして性質が反転するから面白い。良し悪しも場面や関係性や、コミュニティーによって変わり得る。なんでも即時に判断するのは危ない。

4日。
作業から一時的に解放されて放心。トスカーナの赤ワインを飲む。赤ワインを飲むと、割と早めに酔っ払ってしまう。ビールよりもアルコール度数が高いのだから当たり前なのだけれど、白ワインに比べても酔いの進みが早いように思う。もっと早いのは日本酒で、ひとり酒なら一合でベラベラになってしまう。しかし、3人で一升半の熱燗を飲んでも大丈夫だったこともある。途中からお湯だった可能性。

5日。
炒め物が思ったようにいかないとき、もうこれはカレー粉にしか救いようがないと思うことがしばしばある。しかし、カレー粉を入れたところで、もとの炒め物の基礎のところがグズグズになっており、カレー粉によってむしろその散らかり方、不味さのエントロピーが増大して崩壊してしまう、みたいな結果もあり得る。今回は荒れる会議の最後に長老が現れて話が丸く収まる、みたいな感じで助かった。