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ドサクサ日記 4/11-17 2022

11日。
ツアーのために、喜多君とギターのアンサンブルの確認。新しいアルバム『プラネットフォークス』は意図的にパワーコード(ルートと5度だけ鳴らすコード)を減らして、4和音の曲を増やした。山ちゃんのベースラインにも付き合ったりしているので、運指が複雑なところがある。録音時にできたことはライブでもできるはずなのだが、録音時の記憶を喪失しているので、喜多君の力を借りて再構築した。

12日。
ツアーのリハーサルに駅から徒歩で向かう途中、ふと歩道に目をやると派手なピンク色の下着が落ちていた。股ぐりのヒラヒラとしたレースがアスファルトに張り付いて、行き倒れのような形になっている。行き交うサラリーマンは誰も気がつかない様子で、俺だけにしか見えていないのかしらと不安になる。いや、何もかもが引き剥がされたただの布切れであることを、通行人は見抜いているのかもしれない。

13日。
久々に人間ドックへ行った。人間ドックに行くときは、いつもなんだか悲しい気持ちになる。少し恥ずかしくもある。それは決まって自分の尿と便を持って行かねばならないからだ。楽譜や歌詞カード、コード理論のファイル、お気に入りの文庫本、などと一緒にデイバックには尿と便が入っている。検査なのだから仕方がないのはわかっている。健康に生きたいという願望も、執着すれば滑稽なのかも。

14日。
以前に新宿は落合のSOUPで撮影した演奏の模様が公開になった。Group AのTot Onyxさんの呼びかけで行われたイベントで、俺はyahyelの篠田ミル君と参加した。なるべくプライベートな詩を書いてほしいというミル君のリクエストに答えて、震災時の自分の視点からはじまる言葉を綴り、ギターのノイズを演奏しながら読んだ。いろいろな想いがある。それらをすべて言葉にはできない。音楽にはそれを受け止める包容力がある。例えば、旋律はある意味で言葉よりも雄弁だったりする。ノイズも然り。言葉にもメロディにもならない感情がある。感情とは呼べない未分類の何かだって、たくさん抱えている。それらが平均律という合理的な手法で表せるとは限らない。ガイドがなければ、メロディだって平均律の外側を揺蕩う。名前のない音や具体性も再現性もない音が、私たちを写実している。

揺れる
ヒュンヒュンと音を立てる電線
四角四面は静かに変形して
白波と渦に
プラスチックのケースが洗われる

揺れる
漆黒の半島を下った
冷たいマットの上で
知らない老人と言葉を交わす
今日は天気のいい日だった
今日は天気のいい日だった

揺れる
深夜のグレープフルーツ
指先を擦りながら
暖房に火を入れる
体育館で受け取った冷たい料理

揺れる
血管が脳を締め付けて
ソファに体を縫い付ける
スーパーのレジスター
老人が買い込む即席麺と巨大なエタノール

揺れる
私は一体どこに立っているのか

揺れる
首都圏は壊滅を想像する
朝いちばんの駅の仄暗さ
人気のないホームで手を振ったあとで
静かな爆煙と目が合う

揺れる
私は一体どこに立っているのか
私は一体どこに立っているのか

揺れる
国道沿いの質屋で
誰かが手放した楽器を手にする
その足で繁華街に向かい
コンピューターとマイクを買った

揺れる
私は一体どこに立っているのか
綿、死、私は、板、痛い、一体、 どこに立っているのか

揺れる
チリチリと引き攣る空気
「放射能はここまで来ているよ」と父が言う
沈黙を破って歌をうたう
沈黙を破って歌をうたう

揺れる
私は一体どこに立っているのか

揺れる
世界の果てまで逃れても
解放される術はないということ
雨の東京で
無力と混沌に身を浸す

アラートで強張る身体
言葉が滴り落ちる深夜の
液晶画面から溢れる光で
側頭部を強かに打つ

揺れる
私はどこに立っているのか
綿、死、私は、板、痛い、一体、
どこ、2、立って、立っている
ILL、野、要るのか
か、か、か、か、か、か、かか、か、か、

すべての思考が引き裂かれ続けている
私とあなた
あるいはあなたと私
いっぺんの曇りもなく
誤りも過ちもない現在に立ち
そこから未来を睥睨する
一ミリも動かないと決めた意固地な魂を
ギスギスになるまで敷き詰めた表通り
それすらも蹂躙するように戦車は進む
無力さを噛み締めて
血まみれの歯茎の
鈍い痛みともどかしさを抱えたまま
揺れる

詩を書き
歌う
あなたの手をとってはにかみ
踊る
大地を踏み締めた指先の
その感触に涙する

賑わう市場
陳列する屍
石油ゴミを
両手いっぱいに抱えて
日々の暮らしに埋没する

汚泥を突き破って発芽する
芽は伸び
双葉が凛々しく開き
無限の成長を夢見たまま
横ばいに生い茂る

綿、死、私、私は、皺
一帯、痛ッ、痛い、どこに、煮立って、
ぐつぐつと煮立って、ている、テール、
テール?
しっぽ?
つまり、終わり?

否 ここが始まり
地面いっぱいに葉を茂らせ
あなたと横たわる
そして目を開き 風と共に揺れる

後藤正文「無題」

15日。
マイクケーブル作りをじっくり行う。YouTubeなどで検索すると、ハンダ付けの方法を解説した動画が上がっている。その通りにやってみるとまったくしっくりこない。仕方ないので、自分なりの方法を模索する。思えば、ギターを始めたときもそうだった。oasisのスコアを買ってきて譜面通りに演奏してみたが、明らかにノエルが弾いている方法とは違う音だと思った。相変わらず面倒臭い人間だ。

16日。
それをやったことがない人に「それくらいチャチャッとできるでしょう」的な感じで仕事を頼まれるとムカッとしてしまう。きっと簡単そうに見えるのだろう。しかし、報酬はいらないけれども「ありがとう」くらいの声は先にかけてほしい、くらいの手間隙だったりする。実はそういう仕事で世の中は満ちていて、自分こそが軽口を叩きながら頼む側であることもあるので、心の底から気をつけたい。

17日。
演奏は上手なことに越したことはない。けれども、誰もがスーパープレイヤーではない。不完全な私たちの、日常の中にある喜怒哀楽。それをどのような態度で捕まえて記録するのか。どのような瞬間を録音するのか。エディットはどの程度で留めるのか。ロックバンドの録音について考えるのは、哲学的な問いを立てることに似ている。人生は商品ではない。商品に仕立てることがアートでもない。しかし、世の中の耳やリスナーの感性もまた、待ってはくれない。そこらに転がっている私たちの人生の独奏が、むき出しのままで飛び出して行ける場所が広大である可能性は低い。そこには特別な人たちの、特別な演奏がある。アングルを自分視点に切り替えれば、その特別さとは別に、私の人生や彼の人生も、意味が違うだけで、特別であることに間違いはない。そういうことを忘れて、音楽を切り刻んではいけない。