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幼少期の傷を解放して新しい世界線へ

振りかえれば、クセの強い人とばかり関わってきた人生だった。

自己愛が強すぎる人、依存してくる人、感情が乏しくて共感性の低い人、気づけばいつもそんな人たちに囲まれていた。
(もちろんそうじゃない優しい人も数人いて、今はその人たちと一緒にいます)


その人たちはなにかしら問題を抱えていて、当たり前だけど一緒にいるとしんどかった。
マウントをとられたり自慢されたり小さなイジワルをされたり同情すれたり干渉されすぎたり、心ない無神経なひと言をかけられたり、寄り添ってほしいときに気持ちが通じ合わなかったり、モラハラされたりストーカーされたり、、、

いま考えるととんでもない人たちだった。
でもわたしはみずから進んでその人たちと一緒にいた。

なぜならその人たちはわたしの親に似ていたから。



親というのはわたしたちが生まれ落ちた世界そのもので、親の価値観にどっぷり洗脳されるのは仕方のないことだ。
幼いこどもにとって親はいつだって絶対的な正義で、たとえ親に違和感を感じたとしても間違っているのはじぶんの方なのだと思うことで、親の価値観の世界でなんとか生きのびてきた。

そこはじぶんに合ってない場所だったとしても、幼いわたしたちは生きる場所をじぶんで選ぶことはできない。だからじぶんをねじまげて、親の価値観に迎合していくしか生きのびる道はなかった。

そんなふうにして親の価値観に合わせて育つと、わたしたちは親の歪んだカタチに合わせて変形してしまう。たとえばメロンを四角い箱にいれて育てたら四角いメロンができるように、わたしたちもまた親の偏ったカタチにピッタリと沿うじぶんに育ってしまう。

そのカタチがわたしの場合は「共依存」だった。


アルコール中毒で自己愛の強い父親と、その父親におびえて暮らす依存的で感情が乏しくて人の気持ちに寄り添えない母親。母親は父親に共依存していて、いつも不幸そうだった。母親はわたしに父親の愚痴を聞かせ、どれほどじぶんが可哀想かをわたしに言って聞かせた。わたしは「そんな可哀想な母親を助けなくては」という使命感に駆られて母親に共依存して育った。

それがわたしのカタチだった。


大人になって親元を離れてからも、わたしは「共依存」のカタチのままだったから、そのカタチにピッタリ合う自己愛の強い他責思考の人や依存的で感情の乏しい人と引き合った。
そこは慣れ親しんだ場所だった。幼いわたしが育った場所だった。
親の歪みに合わせて作られたわたしのカタチに彼らはピッタリとおさまった。彼らはわたしの親に似ていた。わたしは彼らに強烈な親近感を抱いた。それを運命と勘違いした。


でもその場所にいると、けっきょく自己愛の強い人にコントロールされたり、依存的な人に執着されたり、共感性の乏しい人と心が通じ合わなかったりして、いつも同じようなツライ気持ちを味わうことになった。
それはわたしが幼少期に味わったであろう気持ちだった。
当時の幼いわたしには苦しすぎて感じることが危険だったから、からだに閉じ込めて気づかないふりしてきた悲しみ、孤独、葛藤だった。

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わたしの人生のテーマであるセクシャリティー、毒親、癒し、統合、死別、共依存などについて綴ります。目標月10本以上更新。みなさんの応援がわた…

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