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心情的には「死ぬ」と「生きる」の狭間をうろうろ

 7月にno+eに書いたのは『がんばれカミナリ竜』という短い文章でした。はっきりとは書きませんでしたが、勘の良い人は『がんばれカミナリ竜』を読んで、三谷はがんに罹っているのだと悟ったのではないでしょうか。

 心情的には、今、「死ぬ」と「生きる」の狭間にいます。どちらにするか迷います。狭間は二度目の経験です。一度目は47歳で脳塞栓症に罹った時、二度目が今回の肺がん宣言です。ただし、がんの種類は腺がんと呼ばれるがんで、タバコを吸ったとか、有害物質を吸い込んだとかいうものとは違うようです。事実、腺がんは女性やタバコを吸わない男性に多いのだそうです。脳塞栓症の時も感じましたが、今回も、何となくわたしの遺伝子が悪さをしている気がします。

 これにはおまけがあります。よく考えてみると、大学院生時代や無給の研究員時代にも、アフリカから帰ってすぐに入院した経験があるのです。確かあれはマラリアの治療薬が身体に合わず、肝臓が壊死してしまったせいでした――ファンシダールという治療薬を使ったのですが、これがきつかったようです。ファンシダールで死亡したアフリカ系アメリカ人が何人かいると聞きました。挙げ句の果てに、知り合いの熱帯医学専門のお医者さんに「入院しなければ死ぬよ」と脅かされて、入院するしかなかったのです。

 この「おまけ」では、まさか肝臓の壊死が死につながるとは思ってもいませんでした。肝臓は再生能力の高い臓器だと聞いていました。ところが脳塞栓症と肺がんは、本当に「死ぬ」と「生きる」の狭間なのです。今度こそ「えらいこっちゃ」なのです。

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 脳塞栓症に陥った時は薬の副作用と脳のダメージという、それまで経験したことがない暴風雨に晒されて、「死ぬ」と「生きる」の二分法が意味を失っていた時でした。脳の腫れを抑えるためだと思いますが、ラジカットという薬を使っていました。ところがこの薬の副作用で全身に赤い発疹が出て、「死ぬ」と「生きる」の境目を行ったり来たりしていたのです。妻は医師から「死を覚悟しておいてください」と言われたそうです。

 今から振り返ると、当の本人は「死ぬ」ことも「生きる」ことも曖昧なままでした。「死ぬ」と「生きる」の区別がつかず、「死ぬ」にしても「生きる」にしても、そこに本来込めるべき感情が消えてなくなっていたのです。別の言葉で言い直せば、「死ぬ」ことが怖いとは思えず、また「生きる」ことが嬉しいとは思えないのです。これは肝臓の壊死の時のように「『死ぬ』などとは夢にも思っていなかった」というのとはまったく違います。そう思う感情自体がなくなっていたのです――何を書いているか分かってもらえるでしょうか。「死ぬ」と「生きる」の区別がつかないままに見た夢が、医学書院の「『ことばを失う』の人類学:わたしをフィールド・ワークする」にありました。

 薬の副作用は時間が解決してくれましたが、脳のダメージは、後あとまで残りました。その影響は数年に及び――脳が機能し始めるのには数年かかるということでしょう――「わたしは何時か、必ず死ぬのだ」と悟り直すのには、それなりの時間が必要でした。それも「死ぬのは怖いはずだ」「死ぬのは怖いはずだ」と唱えるように繰り返し、やっとの思いで「死ぬのは怖い」というかつての感覚が蘇ったのだと思います。

 ところが今回の腺がんでは、まだ抗がん剤の嵐には晒されていません。その分、復活した感情のまま、この難敵を迎え撃つしかありません。今はそういう状況に置かれているのです。不安です。しかも、わたしは不安を解消する術(すべ)をまだ知りません。

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 わたしの年長の友人は、脳血管障害で失語症の上、今現在、肺がんで闘病中です。と言うより、もう長い間、闘病状態が続いています。その方は穏やかな男の人で、電動車いすに乗って驚くほど遠くまで出かけていきます。何故遠くまで出かけていくのかは、わたしにも想像がつきます。気晴らしです。一日中、家に閉じこもっていたのでは気が滅入ります。それで海を見に行ったり、ちょっとスピードを上げて広場を突っ切ったりすることで解放されるのです。

 男性は失語症ですから、何か事故が起こっても口ではうまく言えません。言葉が浮かびません。そのために自分では説明しきれないのです。それがとんでもない事故につながることがあります。ある時、抗がん剤の点滴が漏れていたのに、病院からそのまま帰宅させられたことがありました。抗がん剤は静脈に点滴で注入するのですが、針先が静脈をはずれるとただれて、ひどい場合は組織が壊死してしまうそうです。ところが点滴が漏れていると言えず、そのまま家に帰され、数日間、苦しんだということです――今、思い出しても、この時の医療者の対応はひどいと思います。

 男性はマヒがあるので身体が動かしにくく、そのために血管が細くなっています。その細くなった血管に点滴用の大きな針を入れるのです。よほど注意していないと、簡単に針先が外れてしまいます。外れて漏れ出た薬液は普通の薬液とは違います。抗がん剤なのです。そのことを十分承知しているはずの医療者が注意義務を果たさなかったのです。しかも、点滴が漏れていると言えないままに家に帰され、数日間、苦しんだのです。これが医療事故でないとしたら、何が医療事故なのでしょう。

 その後、いつも世話になっている社会福祉士や地域包括支援センターの看護師が男性の窮状を知って病院に苦情を言い、結局、最終的には病院側が謝ったそうです。ただし電話口で口頭で誤っただけで、男性が失語症者であることを配慮して、例えば紙で書いたものを渡すとかといったことはなかったようです。

 これは大学病院や地域の拠点病院の話です。大きな病院では、患者個人の細かなことまで配慮はできないということかもしれません。そして、わたしの腺がんを見つけてくれたのも地域の拠点病院でした。ただし、拠点病院は拠点病院でも、今度、新しく出来た病院です。今は腺がんを見つけてくれた繊細な医療技術を信頼したいと思っています。

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 わたしの血管も細くなっています。採血のたびに「血管が細い」「血管が細い」と文句を言われています。わたしもマヒがあるので、自由に身体を動かすことができないからです。採血のために注射針を何回も刺すのですが、これまで文句を言ったことはありません。針が刺さるぐらい何でもない。そう思っています。しかし、抗がん剤の点滴は別です。漏れると大事(おおごと)です。そこで、漏れない工夫ができるように医師と相談して、胸にポートを作ってもらうことにしました。ポートの正式名称は皮下埋め込み型ポートというそうです。

 ポートというのは、針を入れたら自動的に血管に薬液が注入されるしくみです。ポートからなら、抗がん剤を安全に入れることができるでしょう。これで漏れる心配はなくなるのです。ポートを作ってみて、その使い心地が良いものならば、年長の友人にも勧めてみることにしましょう。

 さて、わたしの抗がん剤治療はいかなることになりますでしょうか。

 一回目の治療の報告は、また次回に。

 抗がん剤の副作用が、それほど苦しくないことを願っています。


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