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【短編小説】「1989」第一話(全七話)

 以前描き下ろしたギター小説を加筆修正した(している)ので、全七回で連載したいとおもいます。

「1989」第一話

 上京して、はや三カ月。東京には夏が訪れていた。
 わたしはカラオケ・ボックスの夜勤を終え、錦糸町にある下宿先のアパートに帰る。
 ドア横の郵便受けに入っている朝刊を取り出す。日付は1989年7月3日。ちらりと一面を見やるが、たいしたニュースもなさそうだ。
 強い朝日によって、室内には、むっとした空気が漂っている。窓を開け、扇風機のスイッチを入れて換気する。コップ一杯の水を飲み、タバコに火を点けながら手帳を開く。今日の授業は三限からだから、二時間ほど仮眠してから出かけよう。科目は線形代数学と基礎物理学。背伸びして合格した大学の授業は、わたしにとってかなりの苦行となっていた。まだ前期ではあるが、このままでは単位が足りずに留年するイメージしかない。自然と眠くなってきたので、万年床で横になる。目覚ましをセットしてすぐに寝入った。

 大学は、錦糸町から総武線で10分の御茶ノ水駅近くにある。が、貧乏学生のわたしに電車通学などの贅沢は許されない。中古で買った自転車を漕いで通っている。両国駅あたりに差し掛かり、隅田川の橋を渡る。周囲の風景こそ違えども、この景色を見るたびに実家栃木の鬼怒川の流れを思いおこす。神田警察署の隣にあるビルが大学本館。通称電大と呼ばれていた。
全力をもってして授業に耳を傾けるが、どうにも理解に及ばない。下宿や図書館で予習復習をすればなんとかなるだろうが、わたしは学業以外にある大学生活の楽しみに抗えていなかった。
 カラオケ・ボックスのアルバイトは楽しく、やりがいがあった。上京するまで自分の手で稼いだことがなかったわたしは、初めてアルバイト代を受け取った日、感激のあまりに眠ることができなかったほどだ。
 そしてもちろんそれ以外でも楽しみがあった。
 二コマの授業を終えたわたしは、別館のサークル棟に向かう。その足取りは軽い。いつもどおりに「おつかれーす」と言いながらドアを開けると、すでにメンバーが何人か集まっていた。10畳に満たない狭い室内で、長髪の青年たちが紫煙をくゆらせている。
「おつかれ。ケイノ(慶野)」
 わたしと同郷、同学年のコマバ(駒場)が応えた。
 この集まりは軽音サークル。ギターが上手なコマバに誘われて入部した。そしてここは部室。会議用の長テーブルとベンチで構成された簡素な部屋。主に打ち合わせや楽器の保管に使われているが、履修の仕方によっては授業のコマに合間があったりするので、ここで時間をつぶせるのがなんともありがたい。そして、いつも誰かしらはここにいるので、さびしさも紛らわらせる。さすがにここでバンド練習はできないが、生音でギターを弾くぐらいはできる。わたしは奥にあるスタンドからギターを取り出して腰掛ける。手グセになったマイナー・ペンタトニックを奏でる。

つづく

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