見出し画像

数学教師の同級生とclubhouseで対談して思ったこと

昨夜、clubhouseにて、高校の同級生で、
数学教師をしている友人と対談した。

毎週水曜日の22時から30分間、
私が話したい人と話したいテーマについて話す、
そんなイベントを企画しており、
その3回目のゲストが彼であった。

タイトルは『現役教員に聴く日本の教育について』

なんとも壮大なテーマにしたな、
と我ながら思うが、個人的に教育には関心があり、
魅力的な授業をしている友人の話を聴いてみたい、
そう思ったのと、単に久しぶりに友人の声を
聴いてみたいと思ったのと、
そんな衝動に駆られた次第であった。

有意義な30分であり、
あっという間の30分でもあり、
また来月も彼を読んで話をする予定である。

さてさて、対談を終え、
まだまだ聴きたいことは山ほどあり、
数ヶ月に渡って、月1回ペースで、
彼とは話をしていくのだが、
昨日話せなかった話題に、
日本人の自己肯定感の低さがある。

彼の勤める学校は、
校風や授業の様子など聴くと、
自己肯定感の低い子は少ないかもしれない。

それでも、
この話題はどこかで聴いてみたいものである。

自己肯定感とは少し異なるのかもしれないが、
釜石に来て思うことは、
親が子の将来について諦めているのかな、
と思う場面に遭遇したことがあり、
子供の自信のなさに繋がっているのかな、
と、短絡的な発想ではあるが、そう感じたからだ。

親というより、
周りの大人と言い換えた方がよいのかもしれない。

具体的な場面を思い出すことは難しいが、
「こんな田舎だと何もないし無理よね」とか、
「この子は何もできないから無理です」とか、
そんなニュアンスの言葉を聞いたとき、
そんなことを感じたのだと思う。

もちろん、本心で言っているのか、
謙遜の気持ちで言っているのかも、
とか、発言者の真意はわからない。

しかし、言葉というのは、
古来より言霊という概念があるように、
発言者の意図の外で、受け取った人の心に、
まるで呪いのように残るものである。

大人達の発言を聴き、次第に自信をなくし、
自己肯定感が低くなる、ということがあっても、
おかしくはないのかなぁと思うのだ。

そう思う私自身も、無意識に、
ネガティブな言葉を発しているかもしれない。

そんな場面に出くわすたびに、
子供の未来を奪っているのは大人で、
大人が変わらないことには、
子供達の輝かしい未来は訪れないのではないか、
そう思うこともあった。

しかし、大人であれ、子供であれ、
変化することは人間誰でも難しいものである。

変わることが良いと自信を持って言えるほど、
自分自身、変化しているのか疑わしいので、
他人に変化を求めること自体おこがましいのでは、
なんて思うと何もできなくなってしまう。

大人が変わらないコミュニティの中で、
子供が明るい未来を持つにはどうしたら良いのか。

大人を変えられないのであれば、
子供に犠牲を強いるしかないのか。

答えはないし、論理の飛躍が多分に見られるが、
この問いに対して、解決策があるとすれば、
少しでも子供の未来を尊重し、
子供の未来を信じている大人達との接点があれば、
救われるのかなぁ、なんて朧げながら考えた。

例え、周囲の大人から明るい未来を貶されても、
家に帰れば、実の親から認めてもらえる、
そんな感じの場所があれば良いのかなぁ。

書いていて、恥ずかしくなるぐらい、
短絡的で稚拙な思考であるが、
そんなことを思った朝のひと時であった。

こんなポンコツな私ですが、もしよろしければサポートいただけると至極感激でございます😊 今後、さまざまなコンテンツを発信していきたいと思っておりますので、何卒よろしくお願いいたします🥺