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北海道に旅立つ日に


北海道に旅立つ日がやって来た。コロナのために一ヶ月延期になり移転できるかどうかも不安な日々だった。とはいえこの一ヶ月は恵みの一ヶ月でもあった。人生の中で何もすべきことのない一ヶ月。そうあるものではないと思う。十数年母親が丹精込めて世話して来た庭が最後を惜しむような美しさ。日々、忙しい最中を縫って追われるように葉刈りをし、花柄を取りたくてもとる暇もなく、畑の野菜も植えた後はなかなか見にいってやれない。そんな日々だった。そんな木々をひと枝ひと枝丁寧に伸びたところを刈ってやる。虫が入っている葉っぱを丁寧に取ってやる。花が終わった枝から毎日一本ずつ取ってやる。そんな慈しむような時間を過ごした。

庭に憩う時間。それもまた素晴らしかった。木々の間から漏れる木漏れ日の中でただただ座っている時間。蜂が飛び回る音がしてバラの香りが包み込む庭。そんな日々だった。しばらく実家には帰ってこない。年老いた両親を残していく。姉も残ってはくれるけれど仕事と家事で忙しい。そんな中で自分は何ができるだろうか。この大好きな家を10数年ぶりにちょっとリノベーションしよう。大切に使ったこの家もいろんな歴史が刻まれて真っ白だった壁紙は薄く黄色がかっている。いつの間にか溜まったいろんなものが眠っている。懐かしい本が出てくる。そんな本を見てこんな生き方がしたいと憧れた日を思い出す。今になってまた新鮮な啓発を受ける。イギリスに渡って古い家を居心地よく変えるお話。ウイリアムモリスの壁紙を貼る話。

私は思い立って壁紙を張り替える。ウイリアムモリスのものに。汚れていた壁を白いペンキで補修する。カーテンを作り替えて、クッションカバーもブラックウオッチにする。家に眠っていた生地を引っ張り出していろんなものに変えていく。なんて愛おしい家なんだろうか。季節にしては涼しい六月を過ごしながら少し薄暗い部屋の中で物思いにふける。これから向かう北海道の暮らしはどんなだろう。


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私がいなくなってきっと寂しくなるであろうこの家。どうか居心地よく暮らしてほしい。愛する家族への気持ちも込めて。庭とミシンと本と。そんな一ヶ月だった。思う存分ゆっくりして話し、笑い、考えた日々。いろんな不安もあったけどこれは私にとって必要な時間だったと思う。父と母が一緒にケーキを焼いてくれる。こんな幸せな時間があるなんて。

そして私の心に忘れられない出来事が起こる。16年間一緒に暮らした猫。ピアノである。歳のわりにはずっと元気だった。私に一番懐いていたピアノと一人遠くへ引っ越す娘を思って父は落ち着いたらピアノを北海道に連れていくから。と言っていた。津軽海峡を越えようね。ピアノにそう言っていた。でもにわかに5月ごろからピアノはあまり餌を食べなくなった。少し痩せた気がする。でも元気で毛並みも艶々していた。ある晩、一緒に寝ていたロフトから降りていくピアノが階段から落ちた。そんなことは一度もなかった。やっぱりおかしい。でも良くも悪くもならない。そんな日々が一ヶ月ほど続いていたからもう少しこの状態が続いて少しずつ老化していくのかと考えていた。

それが私が出発する十日前。全く餌を食べなくなった。そして四日前。水を飲まなくなった。夜はずっと私のそばで眠っていた。私は眠れなかった。フラフラになりながらも健気にトイレに向かうピアノを見て涙が止まらなかった。あんなに鳴いていたピアノはもう声が出なくなった。水を飲まなくなってしまった日から私はピアノが大好きだった庭に出してやることにした。本当に気持ちよさそうにしていた。そしてついに私が出発する前の日。その日もあまり眠れなくて朝早くピアノと一緒に庭にいた。もうピアノは立ち上がれなかった。私が抱き上げた時、急にピアノの息が荒くなった。もうダメかもしれない。必死に撫で続けた。ふと呼吸が楽になって穏やかになった。持ち直したのだ。

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お昼が過ぎるまでピアノは穏やかに眠っていた。時々首をあげたりもする。私は明日旅立つ。どうかそれまでにピアノを見送りたい。そうも思っていた。もう一度庭に出してあげよう。庭に出て母と話ししていたらピアノの息がまた荒くなった。急いで家に入って撫で続ける。荒い息が少しずつ遠のいていく。そしてついに皆に見守られてその息は止まった。本当に自然のなすがままにピアノは息を引き取った。抗う事もなく素直に。彼は知っていたのだろうか。私が出発する日を。わかっていたのだろうか。私がもう帰ってこないであろうということを。いってらっしゃい!また新しい人生の一ページを!そう言ってピアノは去っていった。大袈裟でなく、引き止めるでもなく。

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私は今北海道にいる。白樺の木が見える部屋で私はこの文章を書いている。庭に小鳥たちが降り立ち、川からの風がざわざわと音を立てるこの家にいる。これから紡いでいくであろう日々。どんな人と出会いどんな暮らしをするんだろうか。私の心にいつもピアノがいる。父が手紙をくれた。今ピアノを葬った畑の一角にカボチャがツルを伸ばしています。梅雨が明ける頃には実ることでしょう。私は思う。私にはどんなツルが伸びてどんな実がなるんだろうかと。


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