教える賜物を授かる人とは?当てはまっていれば、あなたは神様から教える賜物を授かっていますWho Can Receive Teaching of a Spiritual Gift?
神の子供として生きているクリスチャンは皆、神様から賜物(スピリチュアルギフト)を授かります。
このことは、聖書にも明確に書かれてあることであり、さらには、賜物(スピリチュアルギフト)を授かった者は、授かった賜物(スピリチュアルギフト)に適した働きをする必要性があることも、聖書では明言されています。
神様から授かる賜物について、正しく、尚且つ、正確に理解しようと望む場合、実際には、1冊の聖書だけに頼るのではなく、複数の種類の聖書を確認していくことが必要となります。
理由は、それぞれの聖書は、聖書を翻訳した者たちによって、翻訳に使用されている単語が異なるからです。
さらには、オリジナルの聖書(旧約聖書はヘブライ語・新約聖書はギリシャ語)で使用されている単語を日本語に翻訳しようとする時、ときには、完全に一致する日本語の単語が存在しない場合があるため、
実際には、聖書を正しく、正確に理解しようと望む場合は、複数の種類の聖書を確認し、オリジナルの単語が持っている
●単語の定義
●単語のイメージ
●単語の意味
●単語の概念
これらを理解した上で、自分たちが使用する言語に当てはめていくという作業をおこなわないといけないのです。
神様から授かった賜物(スピリチュアルギフト)を、正しく、正確に理解しようとする場合、日本語の聖書だけでなく、英語の聖書を確認してみることは、非常に役立ちますので、もしも、ご興味がある方は、英語の聖書についても確認してみて下さい。
それでは、まずはじめに、聖書が賜物(スピリチュアルギフト)について、どのように明言しているのかを見ていきましょう。
まずは、パウロが記したローマ人への手紙の12章6節から8節に注目して下さい。
ローマ人への手紙の12章6節から8節では、神さまが与えてくれる『7つの賜物』について話されています。
では、7つの賜物について、それぞれの聖書ではどのように記載されているのかを見てみましょう。
それぞれの聖書では、このように神様から授かる賜物について明言しています。
しかし、ここで、若干の疑問が生じます。
日本語で書かれた三種類の聖書を見比べてみますと、同じ言葉が使用されている賜物と、違う言葉が使用されている賜物があります。
これは、一体、どのように解釈したらよいのでしょうか。
三種類の日本語の聖書で記載されている賜物の言葉を見比べたとき、三種類の聖書の中で、共通して同じ単語が使用されている賜物の名前は、
●預言(よげん)の賜物
●教える賜物
これらの2つだけです。
その他の賜物の名称は、同じものもあれば、違うものもあります。
②番目の賜物については、
奉仕・奉仕・仕える
④番目の賜物については、
勧める・勧める・説教
⑤番目の賜物については、
施し・分け与える・分け与える
⑥番目の賜物については、
指導・指導・監督
⑦番目の賜物については、
慈善・慈善・慰める
という言葉が使用されています。
私は、1955年改訳の口語訳聖書を持っているのですが、1955年改訳聖書ではどのように言われているのを見てみますと、
①預言の賜物
②奉仕の賜物
③教える賜物
④勧めの賜物
⑤寄付の賜物
⑥指導の賜物
⑦慈善の賜物
と書かれてあります。
1955年改訳聖書では、⑤番目の賜物については『寄付の賜物』という言葉が使用されています。
4種類の日本語翻訳の聖書の意味を並べてみますと、
⑤番目の賜物については、
施し・分け与える・分け与える・寄付
という言葉として訳されている状態なのです。
私自身は、『真実を正しく追及したい』『正しいことを教えたい』という願望を強く持っているため、
このように『異なる翻訳の言葉』を聖書の中で見つけてしまいますと、
「それらについての真実を見つけたい!」という強いモチベーション(動機)を持ってしまいます。
そのため、私は別の言語で書かれた複数の聖書を確認しなければいけない状態になります。
私が簡単に比較できる聖書は英語で書かれた聖書です。
では、ここで、英語で書かれた聖書では、賜物についてどのように言っているのかを見てみましょう。
3種類の英語の聖書の中で、賜物(スピリチュアルギフト)について使用されている単語をピックアップしてみましたが、こちらも、同じ単語が使用されているものもあれば、違う単語もあります。
そのため、もしも、私たちが、神様から授かったスピリチュアルギフト(賜物)について、正しく理解したのであれば、1冊だけの聖書に頼るのではなく、複数の聖書を読み、それらのすべての単語の定義について確認していく必要があるのです。
では、そのことを踏まえて、それぞれの賜物について、深く掘り下げていきましょう。
パウロが記したローマ人への手紙の第12章6節から8節では、神様が神の子供たちに授ける『7つの賜物』が記載されています。
■第3の賜物
『預言の賜物』については、もしかしたら、理解しにくいと思う方たちがいらっしゃるかもしれませんが、『教える賜物(Teaching)』というのは、おそらく、多くの皆さんにとって、理解しやすい賜物であると推測いたします。
基本的に『教える賜物(Teaching)』を持っている者というのは、
です。
しかしながら、『教える賜物』というのは、教えることだけに特化している賜物ではありません。
もしかしたら、多くのクリスチャンの皆さんは、『教える賜物』を授かった人というのは、ただ単に人に”教えることができる人”と思い込んでいるかもしれませんが、実はそうではありません。
なぜなのか理由はわかりませんが、日本の多くの教会では、牧師さんたちのことを『牧師先生』と呼ぶ傾向にあるようです。
そのため、もしかしたら、クリスチャンの皆さんたちの中には、
と思い、牧師の皆さんたちを『教師』、つまり『教える賜物』を授かっている人たちと思い込んでいる方たちがおられるかもしれませんが、必ずしも、牧師の皆さんたちのすべてが、『教える賜物』を授かっているわけではないのです。
■教える賜物を授かっている者とはどのような人か?
もしもあなたが、ご自分が『教える賜物(Teaching)』を授かっているかどうかについて知りたい場合は、まずは、以下の質問をあなた自身に投げかけてみて下さい。
そして、自分に当てはまるかどうかを、正直に答えて下さい。
もしも、これらの質問の答えが、すべて「はい」である場合、あなたは『教える賜物』を授かっている可能性があります。
しかしながら、これだけでは『教える賜物』を授かっていると断定することはできません。
『教える賜物』を授かっている者が兼ね備えている次の条件についても詳しく見て行きましょう。
実は、『教える賜物』を与えられ、良い教師としての賜物を授けられた人は、神の言葉によって特定の行動を取るよう求められ、その行動を取ります。
それらの特定の行動は、以下のような行動です。
『教える賜物』を授けられた者は、高い忍耐力を兼ね備えており、自分自身のセルフコントロール能力も非常に高いという特徴があります。
そのため、『教える賜物』を授けられた者が、簡単にギブアップするということはなく、何事においても、忍耐強く、継続し続けていくという持続力を持っています。
また、『教える賜物』を授けられた者は、神の言葉に対して深い敬意を払い、聖書の真実を追求し続ける情熱を持っています。
『教える賜物』を授けられた者は勤勉であり、彼ら(彼女たち)は主題について完全な知識を得るまで、その主題の研究に固執し、没頭します。
さらに、『教える賜物』を授けられた者は、信頼できる者として他者から頼られることが非常に多く、また、正しい真実を伝える者として、他者から高い信用を受けています。
聖霊(ホーリースピリット)の導きの下で活動し、『教える賜物』を授かったことを認識している者にとっては、教えることが重荷と感じることはないでしょう。
それよりはむしろ、『教える賜物』を授かっている者にとっては、すべての機会が”教える”機会になり、彼ら(彼女たち)にとっては、どのような状態でも、教える機会として活用することが、無理なく、自然にできてしまうのです。
『教える賜物』を授かった者にとっては、聖書や神様の言葉を深く学ぶことに対して楽しさを感じ、さらには、自分たちが学んだことを、人々と分かち合うことに対して、大きな喜びを感じます。
また、『教える賜物』を授かった者は、自分が習得した知識や技術、スキルを、他者へ伝承していくことに対して強い情熱を持っています。
■教える賜物を持つ者の特性とは?
『教える賜物』を授かった者は、必ず、以下の特性を持っています。
良い教師というのは、人々に教える時、必ず、秩序を持っています。
秩序とは、物事の正しい順序や筋道のことです。
それは『正しい順番や、順番どおりにわかりやすくきちんと整列されている』という言葉に置き換えることもできるでしょう。
秩序は英語で『Order』と言います。
教える賜物を持っている者の教えは、正しい順番や正しい順序に沿って、わかりやすく、筋道が通った教えになります。
そのため、教える賜物を持っている者は、人々が理解しやすいように、適切な資料を作成し、その資料を提示する傾向にあります。
良い教師というのは、要点を伝える重要な特定のテーマを、順序良く配置させ、レイアウトします。
教える賜物を持っている者は、人々に教える時、または、人々に伝える時、自分が使用する言葉が正確であるか、あるいは、人々に伝える内容に間違いがないかどうかについて、非常に気を配ります。
教える賜物を持っている者にとっては、伝える内容や使用している言葉が正しいことはが非常に重要であり、彼ら(彼女たち)は、ある意味、その点においては、完璧主義者であると言えるかもしれません。
・正しい
・正確である
・間違いがない
ということは、教える賜物を持つ者にとっては、非常に重要なことです。
そのため、教える賜物を持っている者は、神様の教えや聖書の教えを、正しく、正確に、間違いがなく完全に伝えたいという思いが強いため、彼ら(彼女たち)自身の聖書探究のための情熱はとても熱いです。
また、教える賜物を持っている者は、正確な定義や意味を非常に気にします。
そのため、教える賜物を持っている者は、常に、「なぜ?」「どうして?」「それはどういう意味?」ということを考える傾向にあります。
私は、教える賜物を持っている者のひとりなのですが、私の今までの人生の中で、私自身も、常に、「なぜ?」「どうして?」「それはどういう意味?」ということを考えており、このことは、聖書の学びの中で、頻繁に発生していることです。
私は、「なぜ?」「どうして?」「それはどういう意味?」と感じたことについては、自分自身で徹底的に調べ上げ、答えを見つけますが、
教える賜物を持っている者たちの中には、「なぜ?」「どうして?」「それはどういう意味?」と感じたことについて、
「それはどういう意味ですか?」と、誰かに質問する場合もありますので、もしかしたら、そのような行動によって、ときには人々を苛立たせる可能性があるもしれません。
逆に、教える賜物を持っている者は、人々から質問を受けることや、「なぜ?」「どうして?」「それはどういう意味?」と尋ねられることを好みます。
理由は、彼ら(彼女たち)にとっては、受け取った質問に対して答えることは自然にできることであり、とても簡単なことだからです。
また、教える賜物を持っている者たちが持っている情報量というのは、とても膨大であり、通常、普段の生活の中で、教える賜物を持っている者たちが話している内容は、彼ら(彼女たち)が持っている情報量のほんのわずかの内容だったりします。
そのため、もしも、教える賜物を持っている者に、なんらかの質問をした場合、おそらく、多くの皆さんが予想する以上の深い内容の答えや、たくさんの正確な情報が返ってくるでしょう。
教える賜物を持っている者は、正確なことを聞くことと、正確に話すことを非常に望んでいます。
教える賜物を持っている者は、同様に、聖書の研究や自分自身の研究に喜びを感じます。
さらに、彼ら(彼女たち)は、他の人が見落としているかもしれない事実の詳細に意味を見出すことに大きな喜びを感じます。
そして、そのような事実の詳細や情報を取得したら、教える賜物を持っている者は、自分が知っていることのすべてを、人々に惜しみなく伝え、共有したいと考えます。
もしかしたら、教える賜物を持っている者は、ときには、人々が望んでいる内容、または、人々が聞く必要がある内容よりも、より一層、多くの情報を提供するかもしれません。
しかし、それは教える賜物を持っている者が、自分が知っている内容のすべてを、人々に教えたいという強い思いと情熱から発生することなのです。
だからこそ、私も、自分自身が学んだ内容を皆さんにお教えしたいと強く思い、今、この記事を書いている状態なのです。
そのため、仮に、ある人が教師という職業に就いていたとしても、必ずしも、その教師が『教える賜物』を持っているとは限らないということなのです。
あるいは、教会で説教をしている牧師であっても、神学校で教えている教師であっても、日曜学校で教えている教師であっても、必ずしも、その牧師と教師たちが『教える賜物』を持っているとは限らないということなのです。
■教える賜物を持つ者の動機
モチベーショナルギフト
私たちが、自分たちが授かった賜物が何であるのかを判定する際、必ず、着目しなければいけないことは『私たちが持つ動機』です。
この『動機』のことを、英語では『モチベーショナルギフト』と言います。
この『動機』があなたに当てはまっていない場合は、『教える賜物』は、あなたが授かった賜物ではありません。
『教える賜物』を授かっている者は、以下の『モチベーショナルギフト』を持っており、それらの動機に沿った行動を取ります。
【教える賜物を持つ者の動機】
もしも、上記の『モチベーショナルギフト』をお持ちでない皆さんにおかれましては、『教える賜物』ではなく、別の賜物を授かっていることでしょう。
神様から与えらえる賜物は、どの賜物が一番偉いかとか、どの賜物が一番、神様から喜ばれるか、そういった順位づけをするものではありません。
どの賜物も、とても大切な役割があり、どの賜物も非常に重要なのです。
神の子供であるクリスチャンたちは皆、神様の栄光を示すための活躍をするために『賜物』を与えられています。
あなたが神様から与えられた賜物は、あなたの性格や性質にピッタリと合い、尚且つ、あなたが『最大限に神様の栄光を示す働きができるための賜物』になっているのです。
そのため、もしも仮に、あなたが、「私はこの賜物を貰いたい!」と願ったとしても、あなたが求める賜物を与えられるわけではないのです。
もしかしたら、教会で説教をしている牧師の皆さんたちや、神学校で教えている教師の皆さんたちの中には、
「預言の賜物や教える賜物を授かりたい!」
という願望を持たれる皆さんがおられるかもしれませんが、そのような願望を持ったからといって、その賜物を授かるわけではありません。
あるいは、
「牧師や神学校の教師は、預言の賜物や教える賜物を持っているべきである。」
といったような考えをお持ちの方たちもおられるかもしれませんが、それも事実ではありません。
神様はあなたのことを、あなた以上にご存知ですので、あなたの性格や性質、特性にあった賜物を、神様は選択し、あなたに与えてくださっています。
神様の子供として生きているクリスチャンは皆、神様から賜物を授かっておりますが、もしも、あなたが授かった賜物を誤解して認識していたり、
または、もしもあなたが、本来、あなたが授かっている賜物ではない賜物を、あなたが受け取った賜物だと勘違いしている場合、
おそらく、あなたは、神様の栄光を示すための働きを十分におこなえない状態になるでしょう。
例えば、私は『教える賜物』を授かっている者のひとりですが、私には『預言の賜物』を授かった者がおこなう方法で、神様の栄光を示す働きはできません。
賜物の中には、『指導・監督(Leading/Organization)』という賜物があり、この賜物を授かった者には、適切なリーダーシップ能力が必要です。
教会や組織を適切に率いていくためには、教会の代表者になる者や、教会の聖歌隊を率いる指揮者は『リーダーシップ能力』を持っていることが重要です。
私が所属している教会は、聖歌隊とオーケストラを所持しておりますが、聖歌隊とオーケストラを率いる代表のミュージックパスター(Music Pastor)は、非常に統率力がある方で、教会の聖歌隊とオーケストラの指揮者(Conductor)の役割も担っておられます。
私は『指導・監督』の賜物を授かっておりませんので、私にはその働きを通して、神様の栄光を示すことはできませんし、
そもそも、大勢の人々を率いていきたいという動機(モチベーショナルギフト)も、私は持ち合わせていないのです。
しかし、『指導・監督』の賜物を授かった者は、大勢の人々を率いていきたいという動機(モチベーショナルギフト)と、高いリーダーシップ能力を持っているのです。
だからこそ、『指導・監督』の賜物を授かった者は、教会や団体といった組織の中で、神様の栄光を示すための働きをすることに情熱を持ち、実行することができるのです。
だからこそ、私たちは、自分にピッタリと合った賜物が何であるのかを見つける必要があるというわけです。
ぜひ、あなたが授かった賜物が何であるのかを、見つけて下さい。
それによって、あなたは、より一層、神様の栄光を示すための働きを、自然に無理なく、心から喜んで、おこなえるようになるでしょう。
■教える賜物を授かった人・・・ルカ
実は、イエス様の弟子たちにも、それぞれの賜物が授けられています。
新約聖書の中で、『教える賜物』を授かっている人は、ルカ(Luke)です。
このことは、ルカの福音書を熟読し、さらには、『教える賜物』を授かっている者の性質、動機、特性について理解することによって、ルカがいかに、『教える賜物』を授かった人であるかがわかります。(ルカの福音書1:1-4 参照)
ルカが『教える賜物』を授かっていることの裏付けになることは、彼がルカの福音書の『献呈の言葉(ルカの福音書1:1-4 』の中で言及していることです。
※英語の聖書では『Introduction(Luke 1:1-4)』に記載されています。
聖書にはルカの詳しい情報が、あまり記載されておりませんので、ルカのことをよく知らない人たちが多いかもしれませんが、ルカは以下のような人であったと言われています。
※ルカはパウロの伝道旅行に同行したと言われています。
ルカの福音書の第1章1節から4節の部分を理解することによって、実は、ルカは『教える賜物』を授かっていることがわかります。
ルカの福音書の第1章1節から4節までは、ルカによる『献呈の言葉』(※英語ではIntrodution) が記載されてあります。
もしもあなたが聖書を持っている場合、まずは、ルカの福音書を開いてみて下さい。
それでは、ルカが『ルカの福音書1:1-4 』の中で言及している内容を確認してみましょう。
ルカの福音書1:1-4の中で、ルカは以下のことを言及しています。
念のため、英語で書かれた聖書箇所についても確認してみます。
英語の聖書では、
と書かれてあり、この言葉の意味は、
ということです。
つまり、ルカは、イエス様に関することの初めから終わりまでの全てを、すべてを徹底的に調査し、
イエス様がおこなってきた奇跡やイエス様のすべてが真実で正しいということを皆が理解できるように、
ルカの福音書を順序良く、時系列に沿って、正しい順番に整列してまとめ、書き記したということです。
多くの皆さんは、『教える賜物』というのは、ただ単に、『人に教える』という賜物だと思い込んでいるかもしれませんが、『教える賜物』というのは、教えることだけに特化している賜物ではないのです。
ルカは、ルカの福音書の中で、「秩序ある説明を書くつもりである。」と述べています。
このことは、ルカが『イエス様のことについて、正しい順番、正しい順序に沿って、わかりやすく、筋道が通った内容をお伝えする資料を作成する』ということを意味しています。
ルカの福音書については、多くの皆さんが一度は、読んだことがあると思いますが、ぜひ、再度、読み直してみて下さい。
おそらく、ルカの福音書が、いかに秩序ある詳細な内容になっているのかをご理解いただけることでしょう。
実は、聖書の中では、ルカだけが『ルカの福音書』の中で、バプテスマのヨハネの誕生を記しています。
また、マタイとルカだけが、イエス様の誕生と幼少時代について触れているのですが、
ルカの方がマタイよりも、より一層、詳しくイエス様についての詳細を記してあるという部分を見ましても、ルカが『教える賜物』を授かっていることわかります。
ルカが、ルカの福音書を通して、イエス様のことすべてを正確に完全に書き記すことができた理由は、ルカが『教える賜物』の性質、動機、特性を兼ね備えていたからなのです。
なぜ、私がそれをはっきりと明言できるかといいますと、私自身が『教える賜物』をいただいており、私自身もルカが示したそれらの性質、動機、特性を持っているからです。
そのため、私自身は、他のクリスチャンの皆さんの言動、行動、あるいは、書き記した文章や、その人が他者に教えている内容等を見ることによって、その方が『教える賜物』をお持ちであるかどうかの判断ができます。
もしも私たちが、神様から授けられるスピリチュアルギフトについて詳しく学びたいと思う場合、私たちはイエス様の弟子たちについても着目する必要があります。
理由は、イエス様の弟子たちが『どのような行動を取っていたのか?』ということについて着目していくことによって、
●賜物の種類と性質・動機・特性
●どのような特徴・性質(性格)を持っている持ち主がその賜物を授かるのか?
などといったことが、明確に見えてくるからです。
神の子供として生きているクリスチャンであれば、誰もが、神様から『賜物』を授かりますが、しかしながら、私たちが授かった賜物が何であるのかを特定するためには、必ず、
これらを確認することが必要です。
そうでなければ、どの賜物(スピリチュアルギフト)を授かっているかについて、正しい判断ができないからです。
■教える賜物を持っている者の本質の原則
『教える賜物』を持っている者の本質には、以下の3つの原則があります。
(1)興味(Interest)
(2)知識(Knowledge)
(3)事実(Facts)
『教える賜物』を持っている者は、ある主題について、できる限り、多くのことを知りたいという願望があります。
そのため、『教える賜物』を持っている者は、学んでいる分野を掘り下げたり、時間の経過と共に、深みを増していく複数の学習に取り組むことに、決して飽きることがありません。
むしろ、『教える賜物』を持っている者は、学べば学ぶほど、より一層、その分野について深く学ぶことに喜びと楽しさを感じます。
それが、たとえ、どのような分野であっても、『教える賜物』を持っている者の学習欲と探究心は、尽きることがありません。
また、『教える賜物』を持っている者は、自分が人々に提示するすべての情報が、正確であり、有効なものであり、検証可能なものであることを望んでいます。
『教える賜物』を持っている者が非常に嫌うことの中には『曖昧(あいまい)』があります。
『教える賜物』を持っている者は、曖昧な情報、不確かな情報、白黒ハッキリしない情報、矛盾して一致していない情報などといったものに対して、心地悪さを感じます。
この『心地悪さ』については、”スッキリせずに、気持ちが悪い” ”スッキリせずに、後味が悪い”というような表現が適しているように思えます。
教える賜物を持っている者は、正しい知識と正しい理解を望んでいます。
※勧めの賜物、または説教の賜物は、英語の聖書では『Exhortation(エクゾティション)』または『Encouraging(エンコウレイジング)』と呼ばれています。
3つの賜物のそれぞれの『動機の違い』について、ご理解いただけましたでしょうか?
教える賜物を持っている者は、おもに事実に関心を持っています。
教える賜物を持っている者が衝動的な言動を取ることや、衝動劇な行動を取ることはほとんどありません。
理由は、彼らは(彼女たち)は、自制心が高いため、自分自身の感情のコントロールにおいて優れているからであり、彼らは(彼女たち)は、感情論よりも、事実に即した『現実論』を重要視します。
そのため、教える賜物を持っている者は、目的を達成するために、必要な調査をおこない、真実を追求するために徹底的に調べ、何が真実であるかを判断し、その情報を提示するための方法や手法を作り出します。
彼らは(彼女たち)は、最終的な結論を出す前に、出来る限りの方法ですべてをふるいにかけ、それらの情報が正確であるかを検証し、正しい結論を導き出します。
理由は、彼らは(彼女たち)は、自制心が高いため、自分自身の感情のコントロールにおいて優れているからであり、彼らは(彼女たち)は、感情論よりも、事実に即した『現実論』を重要視します。
そのため、教える賜物を持っている者は、目的を達成するために、必要な調査をおこない、真実を追求するために徹底的に調べ、何が真実であるかを判断し、その情報を提示するための方法や手法を作り出します。
彼らは(彼女たち)は、最終的な結論を出す前に、出来る限りの方法ですべてをふるいにかけ、それらの情報が正確であるかを検証し、正しい結論を導き出します。
彼らは(彼女たち)が、感情的に結論を出すことは、まずありません。
■教える賜物を持っている者が注意しなければいけないこと
『教える賜物』を持っている者の目的は、人々が霊的に成長し、人々が神様・イエス様の元へ導かれることです。
そのため、『教える賜物』を持っている者は、ただ単に、自分自身が持っている知識を人々にひけらかしたり、押し付けたり、強要してはいけません。
『教える賜物』を持っている者には、人々が霊的に成長するために必要なことを、地道に忍耐を持ち、根気強く、続けていく能力が必要とされます。
私の個人的な経験としては、私は、今までに何人かの人々を、神様・イエス様の元に導かせていただいた経緯がありますが、常にそれは、その人との一対一の関係性の中で発生していることです。
残念ながら、「教会での説教を聴いてクリスチャンになることを決める」という方たちは、圧倒的に少ない状態であり、
今まで、私が知っている限りでは、救われた皆さんたちは、多くの場合、『一対一の関係性』の中で、神様・イエス様の元に導かれています。
私は、ノンクリスチャンの皆さんたちが、クリスチャンになった体験のお話を聞かせていただく機会がありますが、その皆さんたちも、クリスチャンの皆さんたちとの『一対一の関係性』の中で、神様・イエス様の元に導かれています。
そのため、『教える賜物』を持っている者は、人々との『一対一の関係性』の中で、救われていない人々を、神様・イエス様の元に導くための働きをおこなう必要があります。
『教える賜物』を持っている者は、正確さにこだわるため、ときには、1 つの特定の間違いだけを理由に、全体を却下したくなるときがあるかもしれません。
しかしながら、『教える賜物』を持っている者が注意しなければいけないことは、たった1つのミスや間違いにとらわれることなく、間違いを選別した上で、その上で全体像を見るようにる必要があります。
●神様のご計画の中で、自分がどのような役割を果たすことができるのか?
●他の人々は神様のご計画の中で、どのような役割を果たすことができるのか?
ということについて考え、そのための正しい方法を人々に伝えることも、『教える賜物』を持っている者の役割のひとつです。
多くの教師は、状況を評価するために自分自身の知的能力とスキルに依存する傾向にあります。
教師の中には、自分自身の能力を過信し、自分自身のみのに頼りきってしまう者たちもいます。
しかし、常に正しいのは神であり、神の言葉である聖書です。
もしも、教師が自分自身の能力だけに頼り、自分自身の知識やスキルを絶対的なものであると過信するようになったら、その教師はまさに、ユダヤの律法学者やパリサイ人のようになります。
『教える賜物』を持っている者が注意しなければいけないことは、 自分の能力や知識、スキルを過信することなく、聖霊(ホーリースピリット)の働きを求め、精霊の声に耳を傾ける姿勢を持ち続けることが非常に大切です。
教える賜物を持っているかどうかの判断基準に、学校教育の学位は必要ありません。
私自身は、In Touch Ministry の創始者であり、世界的にも有名な伝道者であり、私が非常に尊敬する師でもあるDr. Charles Stanley 牧師から、人々を神様の元へ導くための説教の作り方や、人々に伝わる説教とはどのようなものなのかについて、深く学ばせていただいたという経緯がありますが、
Dr. Charles Stanley 牧師は、”正式な教育をほとんど受けていないにもかかわらず、神の言葉と神の働きが人間の心の中でどのように行われるかを深く理解している多くの人々に会った。” とおっしゃっていました。
世の中の多くの皆さんは、神学校でキリスト教神学を学ぶことや、大学で神学や哲学を学び、学位を取得しなければ、神様やイエス様についての教えをおこなう資格がないと思い込んでいるかもしれませんが、そうではありません。
仮に、それらについての学位を持っているからといって、その人たちが、神様の言葉や真理を伝える『教える賜物』を持っているとは言えないのです。
むしろ、神学を学んだことによって、ユダヤ人律法学者やパリサイ人のような『律法主義者』になってしまっている牧師や神学校の教師たちは大勢おり、
知識を得て、学位を持ったことによって、教団や教会の中で自分の権威を振りかざすようなことし、本来の神様の目的から外れてしまっている牧師や教師たちも、この世には、大勢いるのです。
そのため、『教える賜物』を持っている者は、ユダヤ人律法学者やパリサイ人のような『律法主義者』になってはいけません。
人間が作った教団という組織や教会の中で、自分のポジションや権威にこだわり、知識がある自分を偉い人のように扱ってはいけませんし、人々から『先生』と呼ばれ、有頂天になってはいけないのです。
むしろ、自分自身を低い者とし、『愛の人』として、人々のお手本になれるような生き方を示していくことがとても重要です。
イエス様は、律法学者たちが好む『権威』についても、注意勧告をしています。
人間というのは、本当に愚かな側面を持っており、人間が集まり、集団ができ、組織を作ると、必ずといっていいほど、その組織の中で階級や位というものを作ります。
その結果、人間は自分がいかに正しく、自分がいかに偉い立場にいるのかといったことや、自分の権威を示すことをおこない、自分の階級や位、ポジショニングにこだわるようになり、最も重要な本質の部分をおざなりにしてしまう状態になるのです。
『教える賜物』を持っている者が、お手本にしなければいけない人は、イエス様です。
イエス様こそが、私たちが見習う必要がある偉大な教師なのです。
■あなたは教える賜物を授かっていますか?
教える賜物を授かっている者の特徴や性質、動機(モチベーショナル・ギフト)についてお話させていただいた上で、あなたに質問です。
もし、あなた自身が、教える賜物を授かっているとしたら、ぜひ、その賜物を活用していただき、神様の栄光を示す働きをおこなっていって下さい。
もしもあなたの周りに、教える賜物を授かった人がいる場合は、ぜひ、その人が教える賜物を最大限に活用できるようにお祈りしてあげて下さい。
教える賜物を授かっている人たちは、簡単にはギブアップせず、高い忍耐力を持ち、人々を導くことを諦めずに、継続し続けることができる人ではありますが、
それでも、私たちと同じ人間ですので、ときには、疲れ果ててしまうときがあるかもしれません。
そのため、『教える賜物』を授かっている人たちが、引き続き、愛と忍耐を持ち、ひとりでも多くの人々を神様・イエス様の元へ導く働きができることを、ぜひ、お祈りして下さい。
私自身は、『教える賜物』を授かっており、私が今回、お話させていただきましたような理由から、ひとりでも多くの皆さんに、賜物について正しく理解していただきたいと思い、お話させていただきました。
あなたにとって、少しでも、私のお話が役に立ち、これからもあなたが神様の栄光を示す働きができることを切に願います。
Article by Toshie Ito ©copyright Good news Minstries with Toshie Ito
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