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幸せカサンドラ

つい最近、Twitterで「幸せカサンドラ」というリプをいただきました。

「幸せカサンドラ」という単語、Twitter上でたまに見かけるような気がしますが、これが「幸せなカサンドラ」を指すのであれば、「健康的な鬱」と同じくらいの矛盾を感じます。幸せでないからカサンドラになるわけですから。

今回は上記の私のTweetを軸に、カサンドラの多様性を考察するとともに、せっかくの機会なので最近ご批判のあった「あなたの幸せそう(夫婦円満な様子など)なTweetを見るのがつらい、苦しんでいる人への配慮が足りない」とのご意見に対する私の考えについてもお話しします。

※この記事は4,383文字です。

幸せカサンドラの定義を予想する

幸せカサンドラはどういう状態を指すのか、考えられるものをいくつかピックアップします。

①カサンドラだけど幸せな日々を送っているケース
②カサンドラだったけど幸せになれたケース

パッと思いつくのはこの2つです。

これ以外にもあるかもしれません。もし有力な候補がほかにもあればコメントやTweetなどでお知らせいただければ幸いです。

それではさっそくそれぞれの定義について考えます。

①カサンドラだけど幸せな日々を送っているケース

どうも「幸せカサンドラ」という言葉はカサンドラ界隈で叩かれやすい傾向があるようですので、この言葉の真意はおそらく①にあるのではないかなと予想しています。

そして①があり得るとすれば、パートナーとの関係がうまくいかずカサンドラではあるものの、趣味に没頭したり友達と情緒的なコミュニケーションを楽しんだり、夫婦独自の在り方を形成したりするなどして、うまく折り合いをつけながら幸せな暮らしを実現しているケースかと思います。

別居や家庭内別居などで夫婦の相互干渉を最小限に押さえながら、情緒的な夫婦関係と別の部分で心の充足を図るケースです。一例として経済的に恵まれていたり両親が育児に協力してくれる環境があったりなどすれば、現実的にあり得る話かと思います。

このケースは、その詳細について私がもっとも関心があるケースです。なぜなら定型と発達の家庭内共存の希少な成功例である可能性が高いためです。そこに両者共存のノウハウの真髄があるのではないかという期待があります。

一方で、このケースを果たしてカサンドラ症候群と呼べるかどうかは疑問です。発達パートナーに起因して心を病んでいればカサンドラといっていいでしょう。しかしカサンドラ状態である以上、いくら心の充足を図ってもとても幸せと呼べるような状態ではないと予測できます。ここに「幸せカサンドラ」という言葉の矛盾があります。

カサンドラになることなく、両者上手に共存できるのが理想的であるのは確かです。

②カサンドラだったけど幸せになれたケース

次に「②カサンドラだったけど幸せになれた」ケースです。私がまさにそうです。

ただし「カサンドラになったお陰で幸せになれた」わけでなく、「カサンドラが回復して元の状態に戻った」というニュアンスです。発達と離別すれば割と簡単に実現できるかと思います。カサンドラの後遺症回復には時間がかかるかもしれませんが。

私自身、最近はお陰様でカサンドラ後遺症が回復してきています。カサンドラ最中にあったときは抑うつ症状がひどく、日常生活を普通に送るのが困難な状態でした。詳しくは「発達障害とカサンドラのヤバイ関係」をご覧ください。

発達弟と離れてから、今度はフラッシュバックなどPTSD様の症状に悩まされました。それがようやく全快の兆候が見えるようになるまでに約3年かかっています。

最近ここ数か月でめきめきと症状がよくなっており、フラッシュバックもほとんど起こらなくなりました。そろそろカサンドラ症状から回復したと言っていいと思っています。「カサンドラとぐっばいできた」と心から思えたら、Twitterのアカウント名やプロフィールも現状に沿った内容に変更しようと考えています。

しかし妻からは「鬱症状に回復はないと思う。カサンドラとはこれから一生の付き合いになるかも」と指摘されました。私もそれには同感です。重要なのは再発防止です。

カサンドラの再発防止法についてはまた別の機会にお話しできればと思いますが、要点だけをかいつまむと「自己犠牲しない」と「客観的な判断と対応、対策」に尽きます。

私の場合は、組織的なシステムを整備することで、この問題のマイナス点をプラスに変換したいと考えました。詳細については「発達障害者の楽園」にて記述しています。

しかしこれはあくまで社会組織的な対策であり、家庭内のカサンドラ問題の解決や対策については目下のところ模索中です。

いずれにせよこの通り、「カサンドラだったけど幸せになった」ケースは、発達との離別により実現している方が相当数いらっしゃると思います。実際に「発達パートナーと離婚してよかった!」という方のTweetもたまに拝見しますし、そういうわけで発達障害の対策として現状における私の結論が「棲み分けるしかない」なのです。これは発達障害の問題というより、人間関係全般にいえる原則です。合わない人間と無理に一緒にいる必要はありません。

「棲み分け」は現状考え得るもっとも合理的かつ効果的な解決方法だと思いますが、今は「結論がそこに留まるのはあまりに残酷」という思いと、組織的共存のテクニカルがある程度固まってきたことから、家庭内共存の方法論に目線をシフトしつつあります。

そういえば「脱カサ」もある

そういえば「脱カサンドラ」なんて言葉も見たことがあります。

これはまさに「②カサンドラだったけど幸せになれたケース」に適合するかと思うのですが、「カサンドラだったけど~」でなく「カサンドラなのに(現在進行形)幸せなケース」を指しているならば①の様相を呈してきます。そして脱カサもカサンドラ界隈で批判的に取り扱われやすい様子を見ると、①と似たニュアンスを含んだ言葉である可能性が高いのかもしれません。

私は遅かれ早かれ脱カサンドラすると思いますが、ストレスの原因と離れることで心が回復するのは自然なことです。発達と離れるために大きな負担やストレスが伴う可能性は高いですが、離れさえできればカサンドラ症状もやがて回復へ向かう可能性が高いと思います。

これは発達障害問題に限らず、たとえば仕事でも同様です。

仕事が原因で鬱などを患った方が休職しても、経過が思わしくないというケースは少なくないといいます。私の親しい友人は最近それで自ら命を絶ってしまいました。

もし休職でなく退職という選択をしていたら、また違ったのではないかなと思います。「発達との離別」と同様、「仕事との離別」です。つまり「ストレスの元凶と離れる」ということ。

時間はかかったものの、私の症状が回復に向かったのもストレスの元凶と離れたからだと確信しています。

カサンドラは不幸であるべきか

最後に、冒頭でお話しした通り「あなたの幸せそう(夫婦円満な様子など)なTweetを見るのがつらい、苦しんでいる人への配慮が足りない」というご意見に対する私の考えをお話しします。

私は、カサンドラが必ずしも不幸を発信するべきだとは考えていません。とはいえ共感や痛みの共有が必要な方もいらっしゃるでしょうし、私の幸せそうなTweetが、苦悩の最中にいる方の負担になる可能性を否定するわけでもないのです。これは問題への取り組み方や姿勢の違いだと考えています。

私は発達障害者&カサンドラが抱える問題の「解決」に努めたいと考えています。一時的に気持ちをやり過ごしたり、場当たり的に苦しみをしのいだりするための対症療法的ノウハウにあまり興味がありません。必要なのは抜本的な解決に向けた実践結果と具体的なノウハウです。

ですから優しい言葉の掛け合いで心を癒やしたいという方とは、根本的に方向性が違います。もちろんそういう方を私は尊重しますし、そういう行為を実際に私が行うこともあります。しかし目線を向けるのはあくまで問題の解決なのです。

私の考え方やTwitterでの発信内容が不快であったり苦痛であったりするなら、単純にブロックなりしていただくのがよいかと思います。いただいたご意見はしっかり心に留めておきます。

私はカサンドラ克服に挑戦した一人の人間です。その結果を示すためにあえて幸せそうなTweetを発信しているわけではありませんが、結果的に「発達障害者と離れた一例」として一つの事例を提示できるなら、それはそれで意味があると思っています。

私が実践した方法は、少なくとも私自身のカサンドラ回復や発達弟の自立支援に効果的で有意義でした。ただしケースバイケースですから、私の手段やスタイルがすべての方に有用なわけではありません。加えて状況や発達との関係性などやや特殊なケースでもありますから、具体的解決法の提示には及ばずどうしても一つの参照例の提示に留まります。

とはいえ、私が提示する実践結果や当該問題の解決を目指すアイデア、試行錯誤は、「心を回復して元の幸せな人生を取り戻したい」と考える方の参考になるかとは思います。ひいてはそういう方を勇気づけられれば幸いです。

もし私のスタンスに怒りや嫌悪感を覚えたり、嫉妬を覚えたりするなら、ご参考までにこちらの記事をお読みください。

なお、私が現状の結果を手にするために大きな代償を支払ってきたということをお留め置きいただければ幸いです。

「幸せカサンドラ」リプご本人からご返信いただきました

今ちょうどこのnoteを書いているところで、私に「幸せカサンドラ」とリプしていただいたご本人から、ご説明のリプをいただきました。内容は以下の通りです。わざわざありがとうございます。

無題

私は「幸せカサンドラ」のリプで特段気分を害したわけでも喜んだわけでもなく、単純に当該問題について考察する機会をいただいてありがたく思っています。この場でお礼申し上げます。

こちらのご説明では、幸せカサンドラの定義として「周囲の羨望を集めるために幸せを装うケース」をあげていらっしゃいます。私が先にあげた①と②とも異なる定義です。このような発想がなかったため、シンプルに感心いたしました。

というわけで、幸せカサンドラの定義予想を以下のように改めます。

①カサンドラだけど幸せな日々を送っているケース
②カサンドラだったけど幸せになれたケース
③周囲の羨望を集めるために幸せを装うケース

③のケースでは、脳のメカニズムとしての「優越の錯覚」と「承認欲求」によるイタズラかと予想します。また別の機会に③のケースについて考察したいと思います。

ほかにも上記以外に予想できる定義があれば、コメントやTweetなどでお知らせください。

もしかすると幸せカサンドラって③を指すのかもしれないなぁ。

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