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カサンドラが発達をディスる理由

私はTwitterでカサンドラ垢をやっています。もともとは発達障害当事者がどういう感覚、どういう世界で生きているのかを知ることで自分の思考を整理し、自己のカサンドラ解消に役立てたいと思って始めたアカウントです。カサンドラが回復した今は少し腑抜けて(つまり以前ほど熟考せず気楽に)利用していますが、発達&カサ関係で思うことや考えることなどを発信しています。

こういうアカウントで日々Twitterを使っていると、当然TLにはカサンドラや発達界隈の方のTweetが多くなります。ご自分のパートナー(多くは発達夫)に対するカサンドラの苦悩や悲痛な心の叫びをTweetされる方もいらっしゃいます。

中には直接的な言葉で過激な発言をする方も。

そしてこういうカサンドラに対し、「むしろあなたがおかしいんじゃないの?」「あなたの方がパワハラorモラハラじゃないの?」という意見も散見されます。どうやらその多くは発達障害当事者によるようです。

おそらくほとんどのカサンドラは、こうした過激なカサンドラに同情的だと思います。なぜなら彼らの気持ちを痛いほど知っているから。しかし発達からすればまるで自分の人権を貶められたような、差別されたような気分になるのでしょう。その気持ちもわかります。「発達が」「アスペが」と、カサンドラの主語が大きいのも問題かもしれません。が、そのカサンドラがあなた個人を指して言っているわけでないのは明らかなので過剰に反応するべきではないというのを前提としても、どうもこうした現象を観察していると違和感を覚えます。

というのも、「発達当事者は本気でカサンドラの気持ちがわからないのかもしれない」という懸念が払拭できないためです。ただでさえ特性によって他者の気持ちを想像しにくい類であれば、確かにカサンドラの文言にばかり囚われてその奥にある事情や背景などに思いを馳せるのは難しいかもしれません。

では、こう考えてみてはどうでしょうか。

彼らは「カサンドラ」ではなく「いじめられっこ」なのだと。


カサンドラはいじめられっこ

文部科学省によると、いじめは以下のように定義されています。

「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

これは1986年に行われた「児童生徒の問題行動. 等生徒指導上の諸問題に関する調査」に端を発して行政により定められたいじめの定義で、年数をかけて内容が改められて現在は上記のように収まっています。対象が児童生徒ですので主語も児童生徒になっていますが、これをこのまま職場や家庭などあらゆる社会におけるいじめ問題に適用できます。

つまりいじめとは、「一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」ということです。これはまさにカサンドラそのもの。カサンドラ当時の私もこの通りの状態でした。

さて、これに対し発達は(たとえば私の弟も)こう言うかもしれません。

「攻撃なんてしていない。そんな意思などないのだからいじめじゃない」

しかし、殴る蹴る搾取するなど能動的な加害行為がなくても、無意識の行動が人を傷つけているとすれば、それは立派ないじめなのです。ネグレクトが典型的でしょう。ネグレクトは時に刑事責任を伴う重大な犯罪行為です。いじめともとてもよく似た側面があります。

日々自分を無視したり、さまざまな責任や負担を結果的に強要してきたりする人間を相手に、カサンドラは消耗しながら改善を図ります。どうすればうまくやっていけるか、どうすればこの人とわかりあえるのか。いじめられっこがいじめっこに寄り添う形です。人間関係としては非情に歪で不健全。しかし世間の多くはカサンドラに対し「いじめっこに寄り添え」と言うわけです。

もしあなたがクラスや職場などで無視や嫌がらせといったいじめを受けていたとしたらどうでしょう。いじめっこ達に寄り添う行為がいかに心を削がれる選択か、実体験を通して知っている人も中にはいるはずです。

しかも周りは「いじめられている奴も悪い」「いじめられるには相応の理由がある」と言い、あなたの気持ちや状況にまるで理解を示してくれません。

たまらずSNSでガス抜きをしたり共感者を探そうとしたりすると、今度はSNS上でも「あなたがおかしいんじゃないの?」といわれる。

こんなに救いがない話はありません。

私は当時、本当に弟にいじめられている気分でした。しかも殴ってきたり具体的な障害行為を行ってきたりするわけでない分、非常にたちが悪いと感じました。いっそ殴ってくれた方がマシだと何度も思いました。ほとんど完全犯罪的に人を病ませる。それが発達障害の一側面だと思います。

ここでもし私がパワハラ化すれば、今度は弟が「いじめ被害者」になるでしょう。こうなると、お互いに加害者でありお互いに被害者であるという妙な図式ができあがります。実際にパワハラ化したカサンドラもいるでしょう。

ここで重要なのは「どちらが有責か」という思考です。つまり責任の所在です。

簡単な話、カサンドラがパワハラをやめることで問題が解決するなら、この問題の責任はカサンドラにある可能性が高いでしょう。しかし実際には、発達が迷惑行為をやめないと解決しない場合が多いのではないでしょうか。このように「誰が何を行わないことで関係性にどういう変化が起こるか」と考えると、問題の原因を特定しやすくなります。つまり責任の所在を明らかにしやすくなるわけです。

許されざるカサンドラ

とはいえ、中にはカサンドラでもないのにカサンドラを自称する人もいるでしょう。Twitterでそれらしき人にはまだ出会っていませんが、実生活においてまさに疑似カサンドラを体現する女性に会ったことがあります。当然彼女は被害者(カサンドラ)なんかではありませんでした。それどころか有責配偶者です。単に自己愛性人格だったのだろうと思います。倫理観の歪んだとんでもない女性でした。

どうやら彼女は発達障害やカサンドラという言葉を知らないようでしたが、もしカサンドラという言葉や概念を知ったら、その旗を掲げて自己愛の大海に繰り出すのは想像に難くありません。

さて、Twitterにもいわゆる自称カサンドラはいるのでしょう。カサンドラの皮をかぶったモラハラ、発達当事者、人格障害者、色々なケースが考えられます。

こういう嘘つきカサンドラは許されるべきではありません。だからといって「=責めるべき・正すべき」というわけでもなく。大体のところそういう人は承認欲求に溺れたかわいそうな人なので、わざわざこちらから絡むこともないのです。生き方は人それぞれですから尊重してあげましょう。つまりほっときましょうってこと。そのうち似た者同士でつぶし合って消えるはずです。

カサンドラの種類

カサンドラにもいくつかのタイプがあるようです。ざっと見たところ、以下のようなタイプに分別できるかと思います。

①パートナーへの怒り、失望、憎しみに震える外向タイプ
②怒りや失望が自分に向き塞ぎ込む内向タイプ
③ガス抜きすれば何とかやっていける軽傷タイプ
④自傷などを試みるレベルの重傷タイプ
⑤発達障害の読解を試みる思考タイプ
⑥開き直ることでバランスをとる肝っ玉母ちゃんタイプ
⑦離婚などで当事者から離れた寛解タイプ

個々の性格や状況、年数その他諸々によりこれらのタイプに分かれるようですが、すべてに共通するのが、鬱やパニック障害など何らかの精神疾患を患っているということです。私も診断こそ受けていないものの、抑鬱的になり心身を崩しました(今は回復しています)。

そしてもう一つ重大な共通点があります。それは「発達パートナーとの共存を本気で試みたことがある」ということです。ここが「偽物カサンドラ」との違いかなと思います。

カサにとって発達との共存は、家庭や仕事などと同様「暮らし」に密接する重大な課題です。これができないと暮らしがうまく回りませんし、家族をはじめ自分自身の幸せをも放棄することになるからです。

パートナーが協力的でないため、結果的にカサンドラが発達を見限ったり見捨てたりすることはあるでしょう。中には発達Disに転じる人もいるはずです。しかしそうした彼らも、最初から発達のいわゆる「敵」だったわけではありません。むしろ最初は誰よりもそばで寄り添う味方だったはずなのです。

しかしどうやら一部の発達はそれすらも理解せず、もっとも身近でもっとも頼れるこの味方を、いつしか敵にすら回してしまう様子。とても重大な機会損失ではないでしょうか。

カサンドラの重大な共通点として、「彼らの多くはもともと発達パートナーの味方である」ということを発達当事者に知っておいてもらいたいと思います。

発達の加害性はどうすれば解消できるか

発達障害者が加害傾向であるのは間違いありません。どのように加害的か。たとえば関係がねじれた末の殴る蹴るあるいは暴言などのわかりやすい加害はここでは除外します。わかりにくい加害の方が問題でしょうから。

「発達のわかりにくい加害性」の典型は、ASD受動型に象徴されるような「能動的に動かない=責任転嫁」かと思います。少なくとも私はこれでやられました。

「何もしない」あるいは「何もできない」ということは、その人が達成すべきミッションに対し他者がコストを支払わなければならないということです。言うまでもなく人のリソースは限られていますから、発達を補助すればするほど、補助者のパフォーマンスは下がっていきます。職場の場合はこれによって業務成績が下がり、家庭の場合はこれにより生活の質が下がっていくわけです。

もし「発達当事者にわかりやすくこの状況を再現しろ」と言われたら、私は同居している発達の靴や椅子、ベッドの枕や動線上など、あらゆるところに毎日画鋲を設置すると思います。「いつどこで刺さるかわからない不安感や実際の痛み」を再現するにはかなり有効な方法だと思います。発達からすれば理不尽かもしれません。ですが「私は毎日そうしないと気が済まない特性」ということにします。

「画鋲に刺さる=痛い」は、発達も定型も同じ感覚でしょう。

実際の発達被害では「画鋲に刺さった方がまだマシ」とすら思うことが少なくありません。なのでこの再現法は易しめかとは思いますが、再現度は高そうです。

この「画鋲設置」のストレスを解消するにはどうすればいいか。一般的には「画鋲を置くのをやめろ」でしょう。しかし画鋲を設置しないと気が済まないのが私の特性とすれば、私には「自分にはそうする権利がある。人権がある」と主張することもできます。ところが実際には画鋲を置くことで同居人に被害が及ぶわけですから、この問題を解消するには以下5つの選択肢からどれかを選ぶ必要があります。

①画鋲が刺さって喜ぶド変態と暮らす。
②多大なストレスを受け止めて画鋲の設置をやめる。
③同居人に画鋲に刺さり続けてもらう。
④画鋲設置をやめるためのカウンセリングに通う。
⑤別居or離婚する。

①ができたら理想的です。しかし現実的にはほとんどあり得ません。②ができたら問題は解決ですが、やはりこれも難しいでしょう。同じく③も困難です。④は実現可能ですが、この結果として行き着くのは②か⑤ではないでしょうか。現実的に考えると選択肢はほとんど⑤しかありませんが、さまざまな事情によりこれすらできないのが多くのカサンドラの現状です。

職場における問題ならまだしも、家庭における当該問題はとても深刻かつ難解だと感じます。

さいごに

この記事を通して私が言いたいのは、「カサンドラはいじめられっこのような存在である」ということです。いじめられっこがいじめっこをディスるのは自然でしょう。そして何よりも「たとえ主語が大きかろうと、ツイ主が自分のパートナーや親戚、友人知人などを指して発言しているのは明らかなのだからいちいち反応する必要はない」ってことなのですが、この辺の文脈や含蓄が読めないのも発達特性なのかもしれませんね。

もし、発達が生まれつき画鋲を設置しなければ気が済まない特性なら、それはそれで仕方のないことです。悪意をもって画鋲を置く人も世の中にはいます。どちらもやっていることに変わりはありません。「結果が同じなら動機や特性は関係ない。結果がすべてだ」という考え方もあるでしょう。

しかし私は、結果よりも過程に重きを置いています。つまり「画鋲を置く」という結果に変わりはなくとも、悪意があるか否かで評価の仕方はまるで違うということ。そして対策方法がまるで違うというところに注視しているのです。

こうして私は私なりに考え方や見方、目線を、学習や体験とともに変えながら発展させながら前に進んできました。カサンドラの大半がそうだと思います。だからこそ私は、たとえ彼らがSNSで不満を発散していたとしても、その背景にある気高い意思を思えば軽率に断罪する気になりません。発達当事者に対しても同じ。その背景にある苦悩や苦労を思えば、「お前が悪い」という一方的な言葉を浴びせる気にならないのです。

人にはそれぞれ事情があります。ましてTwitterなどという言葉の一面しか切り取れないツールを介して相手のすべてを知った気になるのは傲慢でしかありません。個人に対する批判的・否定的な言葉も、こうした思い上がりから生まれるものです。

不毛な争いはなくならないのでしょうけど、せめて建設的かつ前向きな議論ができる機会が増えることを願います。

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