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すずめの戸締り 最速考察

お帰りなさい。
新海誠ワールドに引き込まれた皆さん、現実世界へようこそ。

これは新海誠監督最新作「すずめの戸締まり」を独自に解釈したものである。
映画評論や神話の知識は皆無に等しいボクが解釈に挑んだ証である。
知識がないからこそ見えるものがあるとも言うし。
何にせよ、公開日当日に執筆していることから、先行解釈となるものが見当たらず堂々と「独自」や「解釈」と名乗ることができるのは、肩身が狭い思いをしなくて丁度いい。

そもそも自分の解釈を記すことの意味は何か。考えてみた。
それは監督が伝えたかったことを想定した鑑賞者が、自身の解釈を持ち合いぶつけることで、作品の味をより洗練されたものにしていくことにあるのではないか。
その意味で鑑賞者も製作陣なのであり、製作陣とのバトルみたいな感覚すら抱いて観てしまう、観させられるのが新海誠作品であると感じる。

いい映画だった〜、で終わらせてなるものか。
そんなマスターベーションの足しみたいな映画ではないことは観ればわかるはず。一緒に謎を紐解いていこう。

この記事は、既に鑑賞した方向けに書く。ネタバレもある。
なんせ1時間前に観終わったばかりで解釈自体も荒削りだが、これを叩き台にして、すずめの戸締まりという新海誠監督の生み出した芸術をさらに輝かせたい。
そもそもこれが叩き台になるという発想自体が烏滸がましいのかもしれない。

・作品の主たるメッセージ

「心に刻む」ことを絶やすな。
心に刻むのは、故人への思いだけではない。
明日も生き抜くという活力、あの人に会いたいという願望もだ。
「おかえり」・「行ってきます」はその現だ。

・大枠の解釈


前提として、常世は見る者により姿を変え、人の魂の数だけ存在する。
死者の場所である常世には、現世を生きる者はある決まった扉からでないと行くことができない。
だから要石になった草太を助けようとしても、鈴芽は常世へ渡れなかったのだろう。

ミミズは、過去に亡くなった人々の思いを象徴化したものである。
彼らが現世に入らないようにするには、現代を生きる人間の思いを重しとして押さえつけることが必要である。これは草太が鈴芽との別れ際で言っていたことだ。
つまり、要石をミミズに突き刺す行為や、扉を閉じる行為は故人の思いを実感するということだ。
ここで重要なのが、理解することと実感することの違い、忘れることと乗り越えることの違いである。

まず理解と実感について。
よく震災だけでなく災害が起こると人は被災者に同情する。だから寄付やボランティアをする。
感情の程度はあるだろうが、「大変だろうに」これで済むのが大半だろう。これを「理解」と呼びたい。
一方で、実感は豊かな想像力や鮮明な経験の記憶により、確かに心へ刻まれる。
もし同じような状況で、自分が母死別したら自分はどう思うだろうか。状況は違えど自分も母を亡くしたから気持ちがわかる。これを「実感」と呼びたい。

さて、草太が要石になったこと、そして鈴芽が要石をミミズに差し、過去の自分に椅子を渡したことはこの「実感」にあたるのではないだろうか。
作中では舞台は宮崎→愛媛→神戸→東京→宮城と移り変わっていく。
言わずもがな、神戸・東京・宮城は日本にて起きた大地震の影響を受けた歴史をもつ地である。
特に東京にあたる、関東大震災では10万5000人が亡くなり、日本史上最悪の自然災害であることから、ミミズが超巨大であったと伺える。
そう考えると、なぜスタートが宮崎であり、愛媛にてミミズが出現したのかは謎である。
しかし、これはメインメッセージが震災だけを含むのではないことを示唆しているとも考えられる。
震災だけでなく、様々な死者への思いを馳せることが求められているのではないだろうか。

そして、その思いの馳せ方が、忘れることと乗り越えることの違いにつながる。
鈴芽は東日本大震災で亡くした母を形見の椅子に投影して、母への思いを馳せていた。
しかし彼女は言う。
「いつからだろう。この椅子を大切にしなくなったのは。」
故人への思いは薄れていくのだ。これを「忘れる」ことと呼びたい。
故人が現世の人々に会いたい思い、故人に現世の人々が会いたい思い。
これらの均衡が崩れたとき地震が起こる。
ならば、地震を止めた草太と鈴芽による東北ミミズへの要石による一撃は何を意味するのか。これが先ほどの通り、故人の思いを実感し、故人に思いを馳せるということだ。
それは「久しく拝領つかまつった山河」を故人に返すことで、故人と現代人の繋がりを保つことによる。

だが草太製の要石をミミズに刺した時と、ダイジン製のものを用いた時の鈴芽では大きく違いがある。
それは、自らの日記を黒塗りにするほど消し去りたい忌々しい震災の記憶と向き合ったことだ。
震災の記憶を遠ざけるあまり、母親を思うことを忌避するようになったのかもしれない。
そしてみみずを鎮めた後、鈴芽は鈴芽Jr.に椅子を渡す。扉を閉じて、「行ってきます」。
過去に何があっても、未来はやってくる。明日は必ず訪れる。
そこには過去の忌避でなく、未来への希望を感じ取ることができた。ボクはこれを「乗り越える」ことと呼びたい。

では本題には入ろう。
いやもう入っているが、繰り返す。メインメッセージは、「心に刻む」ことを絶やすな。
鈴芽は故郷を訪れて、母への思いと生を強く願った母の思い、未来への希望を確かに心に刻んだ。鈴芽Jr.に鈴芽はこう言う。
「朝が来て、夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなる。誰にも邪魔なんてできない。」
「私はあなたの明日だ。」
繰り返すが過去を忌避せず、受け留めた鈴芽は「乗り越えた」のだ。
それは「死ぬことなんて怖くない。運でしかない。」という発言をしていた鈴芽から大きな変化である。

ではなぜ鈴芽は乗り越えられたのか。
そして、草太の方はこの度を通してどう変化したのか。これらを見ていこう。

・なぜ鈴芽は乗り越えられたのか

ダイジンの招きだ。
ダイジンは現世に存在していた。初めは鈴芽が引き抜いたのだった。一方で、草太が要石となった時には、鈴芽には侵入不可能な常世にいた。
この違いは故人の現世への想いの強さに現れると考える。ダイジンは現世への想いが強かったから現世に存在していたのではないか。
しかしこれは議論を要する解釈である。そもそも要石とは、茨城県鹿島神宮などに実在する地震を鎮める石のことだ。
これに基けば、反例の扱いとなるのは草太製の要石@常世である。
これらを統合すると、要石の存在位置は要石の前駆体の思いが向いている場所と言えるのやもしれない。
これは鈴芽がダイジン製要石を抜いたが、草太製要石を抜けなかったことにも通ずるものである。
草太は常世に、ダイジンは現世に思いを馳せていた。こう考えれば筋は通る。

ここまで来ると、ひとつ言えることがある。ちなみに脱線である。
ダイジンは鈴芽の母親説が浮上するのだ。
故人の中で現世への想いが強く、特に鈴芽を招こうとする人。つまり母親なのか?これは至極真っ当な考えのように思える。
鈴芽と2人きりになれて喜び、嫌われたら悲しみ、ピンチの時は助ける猫。これが母の化身なのではないかという説を提唱したい。
これはダイジンが痩せ細っていて、サダイジンが巨大であること、更にはサダイジンが環さん気絶後に大幅縮小化したことに通ずる。
要は、彼らの前駆体である故人達の多さと彼ら自身の大きさが比例するのではないか。
ダイジンは鈴芽の母だった一方で、サダイジンは宗像一族を思う故人や鈴芽の中のかつての環なのではなかろうか。
これならば、彼らの体格差と縮小化、宗像羊朗氏の「見える常世は人それぞれ」という発言にもつながる。
鈴芽と環が想いをぶつけ合うことで、鈴芽が過去の環に想いを馳せ、それが鈴芽の見るサダイジンの縮小化に至るという仮説である。
ここで注意すべきは、その大きなサダイジンは鈴芽しか目にしていないということである。

また、宮城にてミミズと戦うサダイジンははるかに巨大化した。
これは現世を生きる人々の中で、過去の大切な人との別れを「乗り越えた」からであろう。
要は、忘れるでもなく、思い出すでもなく、心に刻んだのだ。
ダイジンやサダイジンが、彼らの前駆体に思いを馳せないと巨大化するのならば、宮城での戦闘サダイジンは思いを馳せられなかったのだろう。
その思いを受け取っていないサダイジンが要石となって託したのは草太であり、ダイジンが託したのは鈴芽だった。
でもそれでいいのだとこの映画は言っているのではないか。思いを馳せ続けないと忘れてしまうなら、心に刻み、生き続け、継承する。
もしそれで忘れてしまうようなら、常世への唯一の扉ー現実世界ならお墓だろうかーへ行き刻み直せばいい。
過去に思いを馳せ続けるのも、忌避の真逆で束縛みたいなもんだ。ボクらが生きるのはボクらの人生で、それをどこかで見守ってくれているのが常世の人達だと思って過ごそう。
そう言っているように聞こえる。

大きく脱線した。
ではなぜダイジンは宮崎にいて、宮城へと向かったのか。
これは鈴芽を守りたかったから、鈴芽に会いたかったからだろう。
恐らく震災後に鈴芽は環に引き取られ宮崎へ移住した。宮崎でも洪水や地震で多くの人が亡くなっている。
その中で鈴芽の身を案じたダイジンは宮崎へ移動した。要石の移動は作中でも地図で示されていた。
災害や親戚の死別により、転居することは珍しくない。その度に現世を生きる人々に会いたい思い、つまりはミミズは移動していく。
それを抑える要石も当然移動するのだ。それに加えて、鈴芽への想いが強いのだ。
簡単に抜けるのはもちろん、宮崎へも移動するはずだ。

次に宮城へ向かった理由だ。
これは簡単に言えば、鈴芽を成長させるため・自分達を「実感」してもらうためであろう。
宮城で鈴芽は大きく変わった。過去を心に刻んだ。
そんな彼女を見て、過去への姿勢・生きる活力を感じたのだろう。だから「すずめの手で、もとに戻して」とダイジンは言ったのだろう。
他の誰でもない、愛する我が子に自分を刻んでほしい。きっとその思いはサダイジンにもあったはずだ。だから鈴芽と草太を飲み込み、草太の手に託されたのだ。

ここでもう一度脱線したい。
今回は、我が子問題についてだ。
環は鈴芽に自分の子になれと言った。でもなれなかった。
鈴芽はダイジンに自分の子になれと言った。でもなれなかった。
これは何を意味するのか。
ここで注目すべきは、宗像一族である。彼らは扉を閉じる閉じ師であり、過去への姿勢・心への刻み込み方の継承に成功した一族であると言えよう。
そうなると、親子関係の構築に失敗したこの三者は、その継承に失敗したと言える。
確かにそうだ。鈴芽は過去に環の心情を理解できなかったし、そんな鈴芽はいつの間にか母の形見の椅子を大切にしなくなった。
だからこそ、鈴芽が鈴芽Jr.に語りかけるシーンは意味を為すのだ。明日の生き方を継承するその言葉は、どんな教えにも優って尊い親の教えとなるだろう。

・草太の変化
まず草太の変化の内容からいこう。
繰り返しだが、閉じ師は過去・未来への姿勢の継承に成功している一族である。
「理解」しかしない世界の中で「実感」できるのが彼らである。
そう考えると草太が要石になったのも頷ける。草太への継承が成功し、草太由来の故人への思いの絶対値が大きかったからであろう。
だから選ばれたのだろうし、そもそもダイジンは鈴芽と2人きりになりたかったのだから、その意味では草太が邪魔だったのかもしれない。
彼が祈るように叫ぶ。
「命が仮初であることはわかっています。死は常に隣にあるとわかっています。それでも私たちは永らえたい」

この生きる活力の原動力は何か。
それは、「会いたい」という思いだ。
どうしても大切な人に会いたいから、1日でも永らえたい。
鈴芽は、草太に会いたい一心で常世を訪れた。その意味で、草太は鈴芽に継承を行ったとも言える。

・まとめ


まさに新海誠集大成にして、最高傑作である。
現代の抱える閉塞感を如実に表現してきた彼が、日本人に大きく横たわる地震というテーマを扱った。
しかもそれを全く予期させない形で。本作品自体が「乗り越える」ことを体現していると「実感」する。
きっと鑑賞者には、会いたい人の顔がいくつも浮かんだはずだ。

ボクはこの映画を通して、広い意味での生きる姿勢を輸入した。
それは故人を心に生かすこと、明日を生きる活力を燃やし続けること。
鈴芽のように苦しんだ人々は実際にたくさんいたはずだ。
あの日の日記を黒塗りにし、故郷の景色を美しいと思えなくなった人々がたくさんいたはずだ。
ボクは震災の2年後に気仙沼市を訪れて、現地の人に話を伺ったことがある。
そこには決壊した堤防と、作中に登場するような廃墟があった。
しかし、同時にそこで生き抜く人々もいた。彼らの言葉には未来があった。
どうしてそんなに強いのか、聞いてみた。ある漁師は答えた。
「俺らの街をもとに戻したい。俺らの手でな」

サダイジンは言った。
「人の手で もとに戻して」
ボクらの歴史は、僕らが紡いでいくものだ。
ボクらの生きる姿勢は、ボクらが定義するものだ。
ボクらがいて、死者が生きる。

草太は言った。
「歴史は繰り返す」
これからも日本は地震に襲われ続けるだろう。
これからもたくさんの人が死ぬだろう。
その度に誰かが泣くだろう。

でも、それでもボクらは生き続けよう。
過去を忌避せず、束縛されず、心に刻み込んで。

大切なあなたへ、おかえり。
行ってきます。

・余談

①他新海誠作品との繋がりについて
・「会いたい」が原動力になっている。
「言の葉の庭」・「君の名は」・「天気の子」では恋人に会いたい一心で、トム・クルーズ張のダッシュを見せるのが特徴だった。
今回も都内で線路からミミズが出現した時は、線路ダッシュを期待してしまった。
ただ、恋人の会いたいから、もっと広く人類の普遍的な感情としての会いたいへと転換していた。THE 集大成。

・snsの皮肉感
「天気の子」との相関が見られた。
Snsによる情報伝達は非常に早く大量の情報が行き交うのに、なぜ故人への思いが風化するのか。こう捉えられもする。
前作では、ボクの独自解釈に基けば、Twitterが他人の願いを潰すことにつながっていた。

・生贄
「天気の子」との相関が見られた。
天気の子として空に閉じ込められた陽菜と何も知らない世間、要石となった草太と地震が増えてるねーと言う世間。
ここに相関あり。

・線のイメージ
「君の名は」との相関が見られた。
電車は総武線に乗っていた。歴史は繰り返すことから、年表という意味で線。親子の継承が連綿とする意味で線。
これは組紐や中央線に乗車していた「君の名は」との相関あり。
ちなみに、「天気の子」では山手線に乗車し、頻繁に指輪の描写があったため輪がテーマとなる。

・今後の課題

  1. 歌詞・インタビューなどから意図把握

  2. 小説の読み込み

  3. 背景にある神話・歴史の理解


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