見出し画像

書けない小説家 (超短編小説)

「君にわかるか? 人生を捧げたものを、捧げるに値すると唯一思えたものを、ある日突然失った気持ちが。絶望だよ。何よりも深くて、恐ろしい感情だ。それを一度知ってしまえば、生きているのは地獄も同然になる。生きていても地獄なら、もっとマシなところを求めたい。僕は信仰心なんて持ち合わせちゃいないからね、祈ったりしない。自分の道は自分で決めるのさ、相棒。あの世へいく」
言い募った彼の顔は、何もかもを諦めているようで、何かにしがみついているようだった。その手に握られた小さな果物ナイフさえなければ、腕を引っ掴んでカウンセリングに引き摺っていくところだ。
けれど、動けないのはそのナイフのせいだけではない。その言葉が、あまりにも悲痛で、耳が痛かったからだ。
長くはない関わりの中で、彼のことを幾つか知った。
例えば、彼が小説家だったこと。
例えば、新しい作家の生み出す作品に埋もれていく不安に潰され、書けなくなったこと。
例えば、事故に遭って歩けなくなったこと。
例えば、スランプと事故の影響で、文字を読むことができなくなったこと。
彼には──本人曰く、それ以外できることもなくて──書くことしかなかった。それなのに、今は簡単な道案内さえ読めない。その絶望、怒り、悲しみ。
精神的な疲弊によるもので、脳や目に、物理的な損傷は無いと医者に慰められたらしいが。
……それが二年前だと言う。
「出ていくなら今のうちだ。君は血を見たら倒れそうだし、人が死ぬところを見たくはないだろ? 君は良い奴だから、警察に見付かった時に殺人犯を疑われるようなことは避けてやりたい。遺書も用意したから、よしんば疑われたとしても、すぐ疑惑は晴れるだろうけど」
遠い目をして、皮肉げに彼は笑って見せた。本気でこちらを気遣っているのか、自分の恐怖を紛らわせたいのか。
どちらとも、とれる。
こんな時、言葉が如何に無力か思い知る。否、自分が、如何に無力か。
生きたいのに生きる希望を奪われ、死ぬことでしかそれを取り戻せないと思っている相手に、何を言えというのか。
彼には生きていて欲しい。けれど、死を望む人を止めるのは自己満足にならないだろうか。無責任に、生きることを求め、更に絶望を長引かせることは果たして"良い行い"なのだろうか。彼の面倒を、生涯見続けることができる立場にある訳でもないくせに。
あぁ、でも。彼の言う通り、人が死ぬところ
なんて見たくない。
──何をごちゃごちゃ考えてる?
「……死んで欲しくない、って言ったら?」
「何故?」
「どうしても」
食いつくように、必死に、訴える僕のことをどう思ったろう。彼は、何も言わずに虚空を見つめているだけだった。
「アンタの苦しみも、辛さも、僕には理解できない。無責任だってことくらいわかってる。でも……でも、死んで欲しくないんだ。なんでか、なんて僕だってわかんないよ」
一歩近付くと、彼は一歩分後ろへ下がった。
「……自殺を止めようって人間にしては、震えてるな。今すぐ右倣えしてドアの向こうに消えるといい。こんな奴のために、一生のトラウマを背負う必要はないよ」
「自殺しようとしてる人をほっといて、後で風の便りに死んだと聞かされるのだってトラウマだよ。この部屋から逃げても逃げなくても、アンタの死からは逃げられない」
「よく舌の回る坊やだな……」
呆れたように言うその人の顔は、今までの傲慢で不遜な雰囲気とはまるで違った。途方に暮れる、という言葉そのものだった。
ナイフの切っ先も、定まらなくなっている。
「ナイフを置いて、外へ出よう。何か食べに行くんだ、好きなものをさ。それか、海を見に行ったり、公園で散歩でもいい」
何故か笑顔を作って、手を伸ばす。彼がナイフを渡してくれれば、それで何かが変わるはずだと信じたかった。
彼は、視線をさ迷わせて皮肉げに笑う。
「なぁ、死んだら何が残ると思う?」
「何、って……アンタは作家だろ」
元、ね。と彼は視線を下げた。
「作家は死ぬまで……いや、死んでも作家だ。アンタが一番よく知ってるんじゃないの?」
「それは"文豪"って奴を言うのさ。僕は違う。死んだところで、ほんの少し稼いだだけの、しがない物書きとして消えてくだけだ」
──彼は、それが怖いのだろうか。
必死に生きて、失って、取り戻そうとして、諦めて。その痕跡が跡形もなく消えてしまうことに、怯えているのだろうか。
なのに、死のうとしている。
「それなら生きればいい。しがない物書きで終わらないように、何かできるよ」
「……何か、ね。何が? 何ができる? 僕には書く以外に何も無い。今やそれも無い。生きる理由が無いんだぞ」
「あるよ、ある」
ほとんど叫ぶように言った僕に、彼は可哀想なものを見る目をした。それは僕に向けたものか。彼自身に向けたものかもしれなかった。
「なら教えてくれ。僕が生きていい理由を。ひとつでいい。ひとつでも言えるなら……」
最後の方は、泣くのを堪えているような小さな声だった。
頼りなくて、親を求める、悪夢を見たあとの子どものようで。
「僕が、アンタの言葉が好きだから。アンタの小説は読んだことない。でも、昨日一緒に海を見て、アンタが言ったこと、すごくいい言葉だと思ったんだ。誰よりも言葉を使うのが上手いよ。それをみんな見逃してる」
「君、小説自体読んだことないんだろ。僕なんかよりずっと言葉の上手い奴がごまんといるのに、それを知らないなんて不憫だ」
初めて聞く、穏やかな笑い声だった。
「主観で生きてるんだから、僕が一番だと思った人が一番だ。間違いなくアンタだよ」
駄目押しのように言い重ねれば、彼は一筋流れた涙を乱暴に拭って、傲慢そうに口角を上げた。
それは、彼らしい笑みだった。
「君のせいで勇気が失せた。……死ぬのはまた今度にしなくちゃな」
その言葉にほっとして、床に座り込みそうになる。何とか踏ん張っている間、彼はナイフを鞄に仕舞って天井を見上げた。
「──生きるも死ぬも、身の内に入り込んだ者に任せてる。海はこの世で最も残酷で、最も器の大きな母親だ」
静かに紡がれたのは、あの日彼が海を見て言った言葉だった。
「…………この先、どうやって生きていこう」
泣き笑いのように言う彼に、僕は。
物語を書き続けるんだよ。大丈夫。今のアンタなら、一言目を書き始められる────
根拠もなく、それでも確信して伝えた。
「代筆なら任せてよ、相棒。なぁ?」