誰が/誰を狙っているのか、視点と不可視の歌詞から考えるのが面白い、キノコホテルの「あたしのスナイパー」のはなし
FC会員限定で先行視聴できた新曲に浮かれている間に新曲のチラ見せ動画やツアーグッズの写真も公開され、気が付いたらツアーもはじまっていた4月後半。新曲、今までの魅力と今までにない新しさを併せ持っているのがとても良くて、ツアーもCDの発売もとにかくうれしい今日この頃。
その前の2月、3月のことも少し触れると、戦慄の雛祭りで初めて見たジュリ島さんの魅力にびっくりしたり、春からのツアー日程が盛り沢山で驚いたり、合間にちょこちょこtenbin Oを見に行ったりしていた。
その間、どうにもやまない好きの気持ちで書いた長めの感想文や、(自分が聞きたいという自分勝手な動機からつい作ってしまった)AppleMusic版プレイリストのことで、思いがけず支配人ご本人からTwitter(X)で触れていただくという、うれしくも大変恐縮する出来事があり、心の底から誤字・脱字に気を付けようと思いつつ、短く的確なレスとSNSならではのさりげなく細やかできちんとした支配人の配慮に、人知れず惚れ直したりもした。ファン思いな方だなと思う。
4月から生活スタイルががらっと変わり、何かと息継ぎの仕方を忘れそうになる一方で、ずっと探していた初期のキノコホテル関連の音源がたまたま手に入ったり、割と休みが取れたり、チケットの整理番号がほど良い感じだったりもして、なんだかやたら推し活はスムーズなので、実生活が大変な分、趣味方面にツキが来ているのかなと思ったりもした。
それで、キノコホテルの「あたしのスナイパー」の歌詞のこと。
2024年、17周年のキノコホテルが届けてくれる新曲や最新の実演会に向けて、インディーズ時代から歌われ、デビューアルバムにも収録されている曲をあらためて聞いて、いろいろ考えてみるのも面白いのでは、と思ったのが書こうと思ったきっかけのひとつ。
この曲、ジェットコースターのように上がり下がりするメロディにのせて描かれるスパイものっぽい世界観(MVのオープニングのイメージも相まって、個人的には007シリーズを思い出す。詳しくはこちらのインタビューもどうぞ)、心を通わせてはいけない標的との意味深な描写、終始ドライで冷徹な視線にぞくっとしたりわくわくしたりできるところが楽しいなと思っているのだけど、普通なら聞き手に明かされるはずの「今、この風景を見ているのは誰なのか」が明かされていないところがあり、歌われているのに表記が世に出ていない不可視の歌詞の内容も相まって、いったい誰が誰を狙っていて、果たして誰が《あたしのスナイパー》なのか、あれこれ考えを巡らせながら聞くのも面白いなと思ったので、そのことを書こうと思う。
歌詞として表記されている内容はもちろんだけど、それと同じくらい、普通は明かされるはずなのに見えなくなっているものにも(むしろ、見えないからこそ、なおさらそこに意味があるのではと)興味をそそられてしまう性質なので、そういうノリの感想文を許容してくださる心の広い方がもしいたら、ゆったり気ままにお付き合いいただけると、とてもうれしい。
配信されている音源は現時点で3バージョンあるので、それぞれリンクを貼っておく。同じ曲でありながら雰囲気が全然違うので、聞き比べするのも楽しい。
錆びた金属のような渋みや重みとぎざぎざ感のある音色が魅力的なデビューアルバム「マリアンヌの憂鬱」収録版はこちら。
よりドライでシンプルな音色によるアレンジの軽やかさとチェンバロっぽい音が印象的な「プレイガール大魔境」版(MV)はこちら。
フルスロットルなハイスピード感と電気オルガンの長く伸びる音が気持ち良い、個人的に一押しの「飼い慣らされない女たち~実況録音盤」版はこちら。
歌詞はひとまずこちらからどうぞ。
(なお、歌詞の表記に関して、先におことわりしておかないといけないことがあるので、(※)に事情をまとめました。ちょっと長いのですが、お時間のある方はそのままお目通しいただけたら幸いです。そこまで歌詞にこだわりがない方やお急ぎの方は、いったん飛ばして本文に進んでいただいても大丈夫。それぞれのご事情とお好みにあわせてご覧いただけたら。)
(※)歌詞の表記に関するおことわり
先輩胞子からするともしかしたら常識なのかもしれないのだけど、「あたしのスナイパー」の歌詞は、現時点で、歌詞サイトのものと、デビューアルバムに入っている歌詞ブックレットのものとで、一部表記が異なっている。
悩ましいことに、どちらも歌の趣旨に沿う上にそれぞれに魅力的なので、単純な誤記とは断定しづらく(というか、違っているところがあまりにもしっくりくる表記なので、仮に誤記だとしてもそうじゃないのではと否定したくなる気持ちすらある)、実演会と同じくらい、歌詞を眺めながら曲を聞くのも好きな文字好き胞子としては、どちらがキノコホテル支配人の意図した表記なのかが気になるところ。
普通に考えると、ネットで紹介される歌詞の引用元は、紙≒歌詞カードであることが多いので、歌詞カード版の表記を採用している別のサイトがあるのではと探したものの見つからず、むしろ逆に、なぜかネットの大手歌詞サイトの場合、歌詞カードとは別の表記が一律採用されていることがわかった。(2024年3月調べ。)
ということは、歌詞カードとは別の表記をあえて掲載する何か特別な理由や経緯があるのでは(例えばデビューアルバム以外に世に出ているこの曲の歌詞カードがあって、そちらの内容を歌詞サイトが引用している…とか?)と思ってできる範囲で調べたり、つぶやいたりしてみたけれど、結局、事情はわからなかった。
(もしもご存じの方がいたら、いまからでもコメントかX(Twitter)かインスタグラムのメッセージなどで、そっと教えていただけたらとてもうれしいです…。)
感想を書くにあたり、どちらの表記にするか悩んだ末、このnoteでは表記違いの部分に関しては歌詞ブックレット版を採用することにしたので、「あれ、ここ、歌詞サイトとなんか違うぞ?」と思った方がもしいたら、それはつまりそういう事情によるものなので、どうかご容赦いただけたらと思う。(歌詞の引用元の表記を、歌詞サイトとブックレットの両方にしているのもそのため。)
お手元にCDがある方は、歌詞サイトとブックレットを見比べながら、どこが違うのかを探しながら読むのも、もしかしたら面白いかもしれない。
1.断片的に示されるシーンと「語り手」の存在に思いを馳せてみたくなる前半
○過去から現在までを示すイメージの並べ方とさりげなくメタな視点が楽しい歌詞
過去を述懐する誰かの独白のような語り口で、登場人物同士の関係と現在に至るまでの経緯がコンパクトにまとまっている前半部分。伝えたいシーンだけを絞って切り取り、組み合わせて示されている感じがして、なんとなく、長期連載マンガの単行本冒頭でよく目にする「これまでのあらすじ」ページみたいだなと思ったりもする。
”悪魔のようなあんた””恨んだりもしたけど”という、おどろおどろしい言葉で描かれる過去の因縁と重くて暗く淀んだ暗雲のような雰囲気に、”仔猫のように震えていた あの娘も綺麗になったわ”で、不憫で可憐な”あの娘”もなんとか生き延びて成長したらしいという救いが木漏れ日みたいにかすかに差し込んでから、そこから”時は流れて ネオンの街角で”の一文により、過去から現在へと視点が一気に移動し、描写される風景ががらりと切り替わるショートカット感が気持ち良い。
この一文、映画の字幕でたまに目にする「一方、その頃ー」とか、「XXXX年、東京ー」といった、作品の一部でありながら作品の外側の視点を合わせ持つ、ナレーションと似たメタさが感じられるところも印象的で、マンガで言うところの俯瞰の視点みたいだなと感じる。あるいは映画における撮影カメラの視点のような。
次のパラグラフは、相手の色仕掛けに気を取られて命を狙われていることに気づかないターゲットという、昔の映画や昭和のドラマなどでは定番のシーンを描いているけれど、しっとりした雰囲気はあるのに過度に色気を煽る描写やしつこさがなく、どこかさっぱりしているところが聞きやすくて気持ち良い。
”グラスの酒”から漂うやさぐれ感(個人的な感覚の話になるけれど、「酒」という言葉を聞くと、ワインやブランデーといった洋酒というよりも日本酒や焼酎のイメージがあり、それを飲み干すところを思い浮かべると、なぜか洋酒をあおるシーンに比べて、やけっぱちな雰囲気がより強く漂ってくるような気持ちになる)、”物憂げに”という言葉が持つ影のある美しさとダウナー感(「潤んだ瞳」や「赤らむ頬」といった、アッパーで狙い撃ちな誘惑の表現とは真逆の描写がかえって印象的)に加えて、悪意や怨念といった激しい感情に巻かれずに、淡々とチャンスを窺う冷徹さが感じられる”無表情な殺意”という言葉や、”あんた”との心の距離の近さを仄めかす”気づいちゃいない”という言葉回しが良いなと思う。
話が脱線するけれど、今の自分の原点ともいえる過去の苦しい感情をちゃんと覚えているのに溺れることはなく、目標を達成するためには手段を選ばず、それでいて慎重に行動する冷静さがある感じがして、たぶんこの方、普通に会社勤めしていたらものすごく出世するタイプなんじゃないかと、変な方向に想像が飛んだりもする。カリスマ社長というよりは、表も裏も知り尽くした副社長みたいなイメージ。敵にしたくないタイプ。
どちらのパラグラフも、「あ、いまこんなシーンが繰り広げられているんだな」というイメージは掴めるけれど、誰と誰の間に何が起きたのかといった詳細は明かされないので、聞き手があれこれ想像できる余白があるのは今のキノコホテルにも通ずる良さで、最近胞子になった身の上からすると、創業当初から変わらない歌詞への姿勢が見えるような気がして、ちょっとうれしくなる。
それにしても、”あんた”はいったいどんなひどいことをしたのだろう、というのはちょっと気になるところ。
○登場人物から《あたしのスナイパー》が誰なのかを考えてみる
さて、ここまでの登場人物を並べると、
・命を狙われることになった”あんた”
・”仔猫のように震えていた”けれど、なんとか成長し綺麗になった”あの娘”
・”あんた”に”無表情な殺意”を向ける何者か(≒後半の歌詞に出てくる”スナイパー”)
の3人のほかに、
・それぞれの情景を目撃し、独白のように語る誰か=「語り手」
を加えた4名になるのかなと思っている。
この「語り手」、一人称が明かされていないので、実は誰だかわからない、正体不明のアンノウンだと個人的には思っている。
ではこの人はいったい何者なんだろうということを考えつつ、この曲を最後まで、斜に構えずに普通に聞いたところ
・過去に”悪魔のようなあんたのこと”を”恨んだりもした”人で、
・現在は”あんた”に殺意を向ける”スナイパー”であり、
・後半のサビで出てくる”あたし”のこと
(つまり「語り手」=”スナイパー”=”あたし”)
なのではと、当初はそう思っていたのだけど、そうなると、”あたし”が《あんたのスナイパー》であることはわかるものの、曲名にもある《あたしのスナイパー》が誰なのかがわからないまま曲が終わってしまうことになり、なんだかすっきりしない気がしてくる。
何かヒントはないものかと思いながら曲を聞いていくうち、この先に書く後半のとある箇所で、
「あれ、そういえばこれっていったい誰の、というか、誰が/どこから見た風景なんだろう?」
と思うところがあり、そこから、
「もしかして、”スナイパー”は”あたし”1人だけではなく、ゆえに「語り手」も《あたしのスナイパー》も、もしかして複数存在する可能性がある…?」
(と、考えながら聞いていくのも楽しいかもしれない)
ということを思いついてしまったので、後半の歌詞の感想とともに、その辺りにも触れてみる。
2.誰が/どこから見ている風景なのかを想像してみたくなる後半
○艶やかに、着実に進んでいく復讐劇のスリリングさが楽しい歌詞
背徳感と艶っぽさに加えて、見えそうで見えない、ばれそうでばれないどきどき感が楽しい歌詞。粛々と、流れるように進んでいく復讐劇の行方がどうなるのかを想像するのも楽しい。
描かれているのはとてもシビアな内容で、”過ちと裁きの宴”に身をさらしながらも、”いずれ死に行く運命”であることを自覚し、相手の命を奪う機会を頭の片隅で冷静に見定めている様子や、自分が相手に手をかける前に相手が正気を失うことのないようにと願う様子には、殺意に気づかれたらそこですべてが終わってしまうスナイパーの立場ならではのドライさと儚さ、相手に命が奪われる恐怖を正気のまま味わせてやりたいという加虐性が見えて、なんともスリリングで格好良い描写だなと思う。
”背中越しに覗く凶器”で、メロディラインが一気に高音にのぼりつめるところの緊張感とカタルシスも気持ちが良い。
ジェットコースターがゆっくり上がって一番高い位置につき、頂上からの景色を「わあ絶景!」と眺めている間にもだんだん降下して加速度が勢いよく増していくときの、心臓がきゅっと縮んでひやりとするような感覚に似ているなと思う。
偶然なのかどうなのかわからないけれど、歌詞を見ずに音だけ聞くと、「凶器」とも、「狂気」とも受け取れて、ダブルミーニングっぽく解釈できる余地がある発音の歌詞になっているところもひっそりと好き。
(もっとも、凶器を手にしなければならないシーンが登場する時点で十分狂気に満ちていると個人的には思うので、文字の持つ意味とも、支配人の意図とも違うとは思うけれど、狂気と解釈してもそんなに矛盾はなく、さながら掛詞のように、言葉の響きから意味をあれこれ足して楽しむのも、それはそれで面白いな、とも思っている。)
○”爪を立ててせがんでいる背中”と隠された凶器を同時に視認する「語り手」の正体と視点の位置を考えてみる
ところで、
の2行は、過去に”あんた”を”恨んだりもした”ことや”無表情な殺意”に気づいていない”あんた”に向けた独り言のような言葉で、”あんた”への浅はかならぬ感情にほど近い距離からの、主観的な表現になっている前半の歌詞に比べると、自分たちのやっていることを”過ちと裁きの宴”と冷静に判断する言葉や色事を含めて進行していく企みを淡々と描く、そういった感情からは少し距離を置いた、客観的な表現になっているように思える。
また、「誰が/誰に対して」という、主語と目的語がどちらも明かされていないという特徴もあって、例えば”「秘密だよ」と耳打ち”したのは誰で、誰に対して”耳打ち”したのか、”過ちと裁きの宴”を繰り返しているのは誰なのか、はっきりとは書かれていないので、誰の視点から、誰が誰のことを言っているのかをあれこれ想像する余地があるところが楽しい。
特に、”爪を立ててせがんでいる 背中越しに覗く凶器隠したままの”という言葉は考えれば考えるほど面白くて、標的に対して凶器を背後に隠せる姿勢ということは、お互いに背中が直接見えない姿勢を取っているということなので、たぶんこのシーンは、”スナイパー”と”あんた”が上体を起こした形で向かい合い、抱き合っている状態であり、では”爪を立ててせがんでいる”のは誰かといえば、サビで”今夜だけはあんたのもの”と嘯いている人、つまり”スナイパー”のことを指し、爪を立てられているのは”あんた”の背中である、と想像できる。
ということは、”背中越しに覗く”、それでいて”隠したままの”凶器がある位置は”あんた”の背中側で、”スナイパー”は両手を”あんた”の背中に回しており、片手では爪を立て、もう片方の手に”凶器”を隠し持っているのでは(個人的には超小型の銃か、毒針を仕込んでいてほしい気持ちがある)と想像できるのだけど、そこでふと、相手の背中に爪を立ててせがむ”スナイパー”の様子と、相手の背中側にある、それでいて至近距離にいる相手にはぎりぎりまで察知されないように巧妙に隠してあるはずの”凶器”を同時に見ることができ、”スナイパー”にもばれずに、この歌詞のように語ることができる視点を持つ人って誰なんだろう、と思った。
視点の位置だけを考えれば、この2つを同時に視認するためには相手の背中側から直接覗くしかないと思うのだけど(でないと、背中に回した手が爪を立てているのかどうかまで把握できないと思う)、そうすると(それこそ”あんた”の背中側に立つ「語り手」から見れば、”あんた”の背中越しに覗く位置に顔がある)”スナイパー”の視界に姿が映ってしまうので、”あんた”の前に「語り手」が始末されてしまいそうな気がする。
あるいは、”背中”というのはあくまで”爪を立ててせがんでいる”側の背中、つまり”スナイパー”の背中のことを指しているとすれば、”スナイパー”は片手を”あんた”の背後に回して爪を立て、もう片方の手を自分の背後に回して凶器ごと隠している状態、つまり凶器の位置は”スナイパー”の背中側である、ということなのかなとも考えてみた。
しかし、そうだとすればなおさら、”スナイパー”に一切察知されずにこの情景を見て語ること自体、ものすごく難しいのでは、という気がしてくる。
(”あんた”の背中に回した手のことを、ただ単に背中に触れているのではなく、”爪を立ててせがんでいる”と表現できるのは、”あんた”の背中側に回された手の置き方や位置を視認しているということであり、それに加えてその道のプロである”スナイパー”が今まさに”凶器”を隠し持っているところはおろか、そもそも一番注意を払うであろう”スナイパー”の背後の様子を本人に気づかれないまま見つめている、ということになるので、それができるこの人はいったい何者なんだろう、というのがますます気になってくる。)
もっともこの歌詞が、爪を立てていて、そして凶器を隠し持っている本人である”スナイパー”(≒”あたし”)自身による独白ということなら辻褄はあうのだけれど、それにしては視点が客観的で、ちょっと遠い感じというか、少し引いたところから眺めているような感じもするのが、なんだかちょっと気になった。
まるで遠くから、向かい合う2人の姿をスコープにおさめて様子を窺っている人が見ている風景のようにも受け取れる表現のような気がする。
…ということを考えつつ、これ以降の歌詞で耳にすることができる”あの娘”の様子から、あらためて”あんた”と”あたし”と”あの娘”のことと、《あたしのスナイパー》って誰なんだろう、ということをさらに考えてみる。
3.不可視の歌詞から探る”あの娘”と”あたし”と《あたしのスナイパー》のこと
○音に聞こえど目には見えない、不可視の歌詞が描く”あの娘”のその後
さて、最初のサビが終わるとすぐ、まるで畳み掛けてくるように、綺麗になった"あの娘"のその後の様子が歌われるのだけど、この箇所以降の歌詞は、なぜか(勝手な推測だけど、たぶん確信犯的に)歌詞ブックレットに記載がなく、(さらに勝手な推測だけど、おそらくは通常引用元とする歌詞ブックレット上に記載がないゆえに)歌詞サイトにも掲載されていない。
そのため結果として、これ以降は、耳で聞いて理解することはできるのに目では捉えることができない不可視の歌詞となっていて、なんだかその歌詞のあり方自体が、銃声はするのに姿は見せない(逆に視認されて自分の居場所や正体がばれることは一貫の終わりを意味する)スナイパーという存在そのものを示しており、ここにこそ《あたしのスナイパー》の正体につながる何かが隠されているんじゃないかと想像できる余地もある構成になっている(のかもしれない)と思えるところが面白い。
隠されれば隠されるほど見たくなるし、そこに何かあるのではと期待してしまう人間の心理をふまえて聞き手の好奇心を微かにくすぐってくる巧みさも感じられて、聞き手の楽しませ方というか、支配人の悪戯上手な感覚とセンスはもういっそ心憎いほど。
(と、書いておきながら思い切り脱線するけれど、実際のところ、ブックレット印刷後にやむを得ない事情で歌詞が変わったとか、ブックレットのデザインを優先してあえて記載を省いたなどの、あくまで制作上の都合によるものなのかもしれないし、もしかしたらこの先、どこかのタイミングでその辺りの事情が明かされて、この感想文の内容が矛盾してしまうこともあるのかもしれない。
だとしても、作者側の意図と、世に出た作品を聞き手側がどう感じたか(作品を鑑賞する側の感覚)というのはそもそも系統の違う話で、たとえ作者の思惑と、聞き手側の感想がまったく違ったり、矛盾したりしていても、(誹謗中傷などの明らかな問題行為は論外として)それだけの理由でそれぞれを否定する必要はまったくなくて、どちらも尊重されるべきものだし、むしろお互いの違いを認めて「こんなことを考える人がいるのか」と、リスペクトしながら面白がり合う関係でいられる方が楽しくて素敵なのではと、最近の趣味界隈のいくつかの騒動を見かけては、なんとなく感じている。
その意味ではキノコホテル周辺の空気はとても貴重で豊かだし、恵まれていると思っていて、本当にありがたいなと感じている(でなければ、こんな酔狂な感想文の存在自体、許してもらえないと思う。支配人と胞子のみなさまの懐の深さに感謝)。)
話を元に戻して、いずれにしてもここから先は歌詞の表記が明かされていないという物理的な理由から、歌詞を引用できないのがなんとももどかしいのだけど、歌われている”あの娘”のその後について、言葉を補足しながら説明すると、
「”悪魔のようなあんたのこと”を恨んだりもしたけど、(成長して)綺麗になった”あの娘”も、いまでは流れ者になってしまった。人としての心を忘れてしまったの」
という内容で、”あたし”と同じか、場合によってはそれ以上にやさぐれて、殺伐としている雰囲気の”あの娘”の現在の様子が伝わってくる。
その後は長めの(ギター、オルガン、ベース、ドラムそれぞれがこれまた恰好良くてずっと聞いていられるんじゃないかとつい思ってしまうくらい魅力的な)間奏が入り、耳で聞く限りでは、歌詞の後半部分”「秘密だよ」”からサビの最後までの歌詞が一度歌われて、さらにもう一度サビの頭に戻ってから、最後は"いずれ死に行く運命よ"ですぱっと終わる。
曲の終わりがはっきりしている潔さとかすかに漂う諸行無常感は、70~80年代の映画に出てくるような、少し古いタイプの銃を撃った後に漂う煙や火薬の香りを思わせて、余韻が程よく残る感じが恰好良いなと思う。
○あらためて”あたし”と”あんた”と”あの娘”について考えてみる
ところで、映画やマンガに出てくるスナイパーはスパイの役割と重ね合わせられていることが多く、銃を持ち、単独で隠密行動するイメージがあるけれど、実際には2人1組か、場合によっては3人1組で行動し、近距離からの攻撃に備えたり、長距離からの狙撃に必要な長時間の偵察における交代要員の意味合いを兼ねる場合がある、ということをこちらのブログではじめて知った(知識不足ですみません)。
ちなみに2人組の場合、1人がターゲットを銃で狙う狙撃手(スナイパー)で、もう1人が周囲を確認する観測手(スポッター)であり、一般的には狙撃手として腕が立ち、経験豊富な上級者(階級が上の人物)が見張りをこなすのだとか。
とすると、スナイパーが主題となっているこの歌における”スナイパー”も当初は2人組で、それが”あんた”と”あたし”だった(つまり2人はかつて仲間同士だった)のかもしれないと想像することもできる。
また、その前提にたってもう一度、前半冒頭の歌詞を眺めてみると、2人で任務にあたっていた最中、”あの娘”を何らかの理由で巻き込んでしまい、その関係で”悪魔のような”と形容したくなるようなことをした”あんた”が”あたし”から恨まれて仲間割れし、”時は流れて”いく間に、それぞれ単独で行動することになったんじゃないか、といった想像もできる(かもしれない)。
(空想だけど、例えば”あの娘”は2人が狙う標的と同居する家族で、”あたし”は用心と情けから、標的が1人でいる時を狙おうと呼びかけたけれど、”あんた”は耳を貸さずに任務を遂行してしまい、結果、”あの娘”はたまたま目の前で大事な人の命が奪われる様を目撃する羽目になってしまった(それが”悪魔のような”と”あんた”が”あたし”に形容される理由)、とか。)
さらに、サビの後に歌われる不可視の歌詞パートでは、”悪魔のようなあんたのこと 恨んだりもしたけど”というフレーズがもう一度繰り返された後に、当時は震えるばかりだった幼い”あの娘”がいまでは街を転々と渡り歩き、人の心を忘れた生き方をしている様子が歌われている。
”あんた”のことを恨んでいると繰り返し歌われる理由と、人の心を忘れた生き方ってなんだろう、そしてこの歌詞以降が目にできない状態になっている(隠されている)理由はあるのだろうかということを考えた時に、
「もしかして、不可視の歌詞以降の”あたし”は、前半までの”あたし”ではなく”あの娘”の一人称であり、前半は”あたし”による”あんた”への復讐劇だけど、不可視の歌詞から歌の終わりまでの復讐劇の主役は”あたし”から”あの娘”に変わっていて、つまり”あの娘”も(人の道を外れた生き方である)スナイパーになって”あたし”に復讐を遂げるまでのことが、この曲では描かれているのでは」
という解釈もできるのかもしれない、と思った。
もしも過去の一件から、”あの娘”も復讐心を胸に、人知れず”スナイパー”になっていたのだとしたら、この曲の始まりから最後まで、実はずっと”あの娘”は”あんた”を狙う”あたし”をどこかから観察していて、”あんた”を手にかけた後も似たような手口で標的を狩る”あたし”の隙を狙い、最後に”あたし”の前に姿を見せて、これまで”あたし”が標的に向かって突き付けてきたのと同じセリフである”今夜だけはあんたのもの””いずれ死に行く運命よ”と嘯きながら、”あんた”に向けて直接銃の引き金を引いたのかもしれない、といったようなシーンを想像してみるのも楽しい。
4.誰が”あたし”で、誰が《あたしのスナイパー》なのか
ということで、ここまで書いてきたことをふまえて考えてみると、この曲中の”あたし”とは1人ではなく2人いて、それは
① ”あんた”を狙う”あたし”
② ①を狙う”あの娘”
であり、そのため《あたしのスナイパー》もそれぞれの「あたし」に対応する形で存在することになり、
①にとっての《あたしのスナイパー》=”あんた”
②にとっての《あたしのスナイパー》=(”あんた”を狙う)”あたし”
とも考えられるのかもしれないなと思う。
この前提にたつと、最初に”あたし”が”あんた”に手をかけて、その後に”あの娘”が”あたし”の息の根を止めた、ということになる。もしもこれで”あの娘”がなんらかの理由で命を絶ってしまったのなら、状況だけ見ると誰が誰を狙っていたのかわからなくなるので、なんだかそれもアガサクリスティーの小説みたいで面白いなと、想像があちこちに飛んでしまう。
おまけ(黒幕のこと)
ちなみに、①の”あんた”を狙う”あたし”は、恨んだ後すぐにではなく、ある程度時間がたってから”あんた”を手にかけている様子なので、自分の殺意を優先する感情的な人ではなく、そういった行為は依頼を受けてから応じる、現実的な面がある人なのかもしれないな、とも思っている。(単純に息の根を止めるのなら、2人組で活動している時の方が何かと事を運びやすいのではと思う。)
とすると、”あんた”を狙うように”あたし”に依頼した誰かがいるということになるけれど、もしもそれが不可視の歌詞のように巧妙に正体を隠した”あの娘”本人だったとしたら、”仔猫”に例えられるほど可憐で、思わず震えてしまうようなひどい仕打ちを一方的に受けるしかない、虐げられる側だった”あの娘”が成長した後に武器だけでなく、かつて自分を傷つけた側への容赦ない反撃を、冷静な酷薄さをもって実行する復讐劇という見方をすることができて、痛快さがさらに増してなおさら面白いなと、ひとりで考えていたりもする。
おしまい
本当はツアー開始前に書いておきたかったなあという気持ちをこっそり書き留めつつ、「あたしのスナイパー」の感想文、おわり。
これに限らず、キノコホテルの曲は歌詞の表記がわからないものが他にもあり、正直なところ気になって仕方ないので、いつか、どこかのタイミングで書籍化とか、歌詞が世に出ていない曲だけ集めたコンピアルバム(歌詞ブックレット付)みたいな商品が発売されたりするといいのになー!と、ひっそりと願っている。
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