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おじいちゃんのタイマー

朝買い物に行くと、ついでにスーパーの一角にあるコーヒーショップで珈琲を飲む。
その朝、コーヒーショップで近くに住む顔見知りのおじいちゃんの顔を見つけた。
へぇ、珈琲、飲むんだ。
わけもなくうれしかった。
おばあちゃんと二人暮らしで、おばあちゃんは寝たきりで、おじいさんが介護しているらしい。
当然ながら、おばあちゃんを見かけたことはないけれど、おじいちゃんの姿はよく見かける。挨拶すると軽く頭を下げてくれるけれど、言葉を交わしたことはない。じっと黙々と生活しているようで切なくなることがある。

「おはようございます」
形だけ声をかけて、一つテーブルをあけて珈琲を飲んだ。
おじいさんはじっとコーヒーカップを見ている。いやたぶん、見ているわけではないのだろう。ただ、じっと何かを考えているのかもしれない。

買い忘れに気づいて、午後にまたスーパーへ行った。
コーヒーショップの前を通り過ぎた時、あのおじいちゃんがまだ朝の姿のままに座っているのにびっくりして、またコーヒーショップに入った。
今度はおじいさんの隣のテーブルに座った。
「こんにちは」
覗き込むようにして声をかけた。おじいさんは張り付いたような笑顔をしていた。口元が固まっているような気もする。いつもなら、ちょっと頭を下げるくらいは応えてくれるのに、こんなに近いのに聞こえていないのか、ただ無視しているのか。
横目に動かないおじいさんを見ながらコーヒーを飲んでいた。
いつの間にか、すぐ傍らに若いウエイターが心配そうに、助けを求めるように、立っていた。
「朝から、ずっと動かないんです」
「えっ」
まじまじとおじいさんを見る。見開いた眼はどこか一点を見ているようだけど、何も見ていないようにも感じる。
「おじいちゃん」
控えめに肩に触れ、軽く揺すってみた。見開いた眼もまた宙を見たままに揺れて、意識があるのかないのかわからない。
「大丈夫ですかね」とはウエイター。
思い切って何度か揺すってみたけれど、ただ揺すられるままに体もなよなよと動くばかりだ。
もちろん息はしているし、体温はある。ただ、魂が抜けているみたいだ。ドキドキしてきた。

「これなんですかね。ずっと気になっていたんですけど」
ウエイターがテーブルの上に置いてある黒い小さな箱を指して言う。ふたを開けたままの小さな黒い箱は、真ん中に一つ赤いスイッチのようなものがあって、その下にデジタル数字が並んでいる。『203』と表示された数字は、見ている間に『202』になった。
「!」
この箱は時限爆弾か。いやいや、そんなはずはない。耳元に近付けても、テレビドラマであるような「カチカチ」という音は聞こえてこない。
でも、眺めている間に『201』になり、
じっと見ているとさらに『200』になった。
数字は少しずつ減っていく。
「ずっと減っていくみたいなんです」
ウエイターの声が裏返っている。
「朝見た時は400だったんです」
「・・」
取りあえず数字が減るのを止めなければいけないような気がして、考えもなくその赤いスイッチを押した。
途端に『199』になっていた表示が『0』になった。
「あ」
覗き込んでいたウエイターと思わず顔を見合わせ、何が起こるのか、と息をのんだ瞬間に、いきなりおじいさんが言葉を発した。
「どうかしましたか」
見上げたおじいさんの視線が手の中の箱にあるのに気づいて、また慌てた。
「すみません。スイッチを押してしまって、0になってしまいました」
それはとんでもない事なのだろうか。
「いやいや」
おじいさんは怒ることもなく笑顔で、その時の数字は何だったかと聞く。199だったと答えると
「間違えたんですね。押してくれてありがとう」と普通に感謝された。
「このスイッチを押すと起きるんですか?」
「0になったからです」
「・・」

おじいさんが話すには、タイマーをかけて寝ていたのだという。30分寝るつもりで間違えて設定したのかもしれないと。
「お疲れなんですね」
「そうですね」
でも、あんなにも熟睡できるものだろうか。
「よく寝ていらっしゃいましたよ。少しは疲れが取れましたか」
目を開けたままに少し微笑んで寝ていましたよ、と言いたくなったけど、やめた。心配した分ちょっと恨めしい。
「訪問販売の雑貨屋から買った素敵なタイマーで寝たい時間を設定して寝ると、よく眠れるんです。おまけに寝た分だけ起きた時は本当に元気になります」
「そうですか・・」あれっ?
「はい。設定した時間になるまで何があろうと絶対に目覚めないから熟睡できます。今回みたいに時間を間違えたら、結構厄介かもしれませんがね。でも、この赤いボタンを押すとリセットされて目覚めることが出来ます」
「え、でも、その赤いボタンは自分では押せないですよね」
「あはは、そうですね」
おじいさんは初めて見るようなおおらかな表情で笑いながらコーヒーショップを出ていった。


「わざとじゃないですかね」
ウエイターは呆れたような、それでいて切なそうな、なんとも言えない表情をしていた。
「たくさん眠りたかったんですよね」
「そうね」
雑貨屋から買った素敵なタイマー・・か。


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