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初音ミクは唯一、「人にならず、死なない」推しである。~推しが終わる時について考えてみた


先日、マジカルミライ2020に初めて参戦してきた。チケットを買うか悩んでいた時、友人がチケットを余っているからと誘ってくれた。本当に感謝している。

歌舞伎町で普段ホスト遊びをしている女子大生である私が今回このnoteを書こうと思ったのは、初音ミク及びボーカロイドというコンテンツは、唯一「死なない推し」なのではないかと思ったからだ。

さて、このnoteを読むにあたって、ぜひ今年のマジカルミライ2020のテーマソングともなった、キノピオピー氏による「愛されなくても君がいる」を聴きながら読んでほしい。

最近一冊の本を読んだ。宇佐見りんの「推し、燃ゆ」である。

同年代の彼女か書いた話題作だが、作中では「推しとは何か」というところの表現が多々あった。主人公のアイドルオタクの少女にとって、推しは「解釈する」ものであった。ライブからバラエティー番組のコメント、雑誌のインタビュー。そうした推しが「コンテンツ」として世界に発信するもの全てを吸収し、自分の中で咀嚼し、解釈する。それが彼女にとっての「推す」ということだった。

ネタバレにもなるが、推しが推しでなくなる時の表現で以下の文章が私の中に刺さった。

引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。

そう、推しは「人」になってしまうのだ。

「推し、燃ゆ」を読み、マジカルミライに参戦する前日の私のツイートである。二次元オタクから三次元ドルオタを回避しホス狂になった私だが、推しは「人」に戻ってしまい、その推しとの記憶は推しが推しを辞めたときに途切れてしまうのに、推しは人になったあとも人生が続く。取り残された私は過去を反芻することしかできない。対して二次元はどうだろうか。

結論を言うと二次元も死ぬ。コンテンツも死ぬのだ。

作品が終わったり作者が死んだら、解釈できる「コンテンツ」は終了してしまう。グッズが出ても、リメイクされても、新しい作品が出ない限り結局はコンテンツの焼き増しだからだ。

ソシャゲも終わってしまう。数年前好きなソシャゲがあったが、配信が停止された。おいて行かれた気分だった。

コンテンツには大体が配給元があって、創作者がいて、そんな人たちが作るのを辞めたとき、辞めざるを得なかったとき、供給が止まってしまう。

対して初音ミクは、ボーカロイドという概念はどうだろう。

初音ミクには、「正解」も「解釈違い」も存在しない。初音ミクはそもそも機械の音声であり、それを誰かが作り続けることでしか存在しない。誰だって初音ミクの創作者になれる。「それが君にとっての初音ミクなんだね。」といえる。

体温がなくても 存在しなくても 
君が存在を感じてくれたら
嘘でも嬉しかったよ 嘘でも嬉しかったよ
(愛されなくても君がいるより)

初音ミクという本来は目に見えない概念が、歌を吹き込まれ、表情を作りこまれ、たくさんの人によってコンテンツとして生み出されていく。概念としてのみ存在し続ける推しは最強で、彼女はきっと、世界中の人たちが初音ミクという存在を忘れない限りこの世界に「推し」として存在し続けてくれる。終わりがない。

ボーカロイドにはいろんな歴史があって、今は衰退しただとか、ボカロPだった人たちが自分が歌うようになったり、歌手とコラボをしていく。それでも初音ミクは死なない。誰かがまた彼女の声で世界を紡ぐ限り死なない。

SNSの発達により、ファンと作り手の距離は縮まった。より創発的な環境が生まれた。初代ボーカロイドであるMEIKOが生まれた15年前、世界にはTwitterもYouTubeもなかった。

昨今でこそ、バズワードとして「創造社会」や「コンテクストデザイン」なんて言葉が飛び交うけれど、そのずっと前から、初音ミクやボーカロイドの文化は、創発的な環境であり続けていた。

自分たちで自分たちのモノや環境、仕組み、意味、価値、生き方などをつくっていく時代。誰かにつくってもらったものを消費するというだけではなく、誰もが「つくり手」側にまわることができる時代。すべてを自分でつくるわけではないが、つくろうと思えばつくることが可能な時代。そのような時代を「創造社会」(クリエイティブ・ソサエティ)という言葉で表現しているのである。/井庭崇のConcept Walkより
コンテクストデザインとは、それに触れた一人ひとりからそれぞれの「ものがたり」が生まれるような「ものづくり」の取り組みや現象を指す。換言するならば、読み手の主体的な関わりと多義的な解釈が表出することを、書き手が意図した創作活動だ。/コンテクストデザインとは 渡邉康太郎

誰もが「初音ミク」を通して自分の想いを発信できる時代。ボカロの曲には社会風刺やらマイノリティの問題なんて社会的な課題を訴えた曲があり、同人誌ではめちゃくちゃドエロイことをしてくれるミクさんまでいる。それがすべて許される。絵でも、音楽でも、企画でも、世界観でも。初音ミクを通して自分の表現は同じ初音ミクを愛する人間に届く。

マジカルミライが発表された当時、歌手が現実にいないのにほんとにライブになるの、とやや疑心暗鬼だった。ネットに上がっているYouTubeの動画を見て、「あ、ほんとうにいるみたいだな」くらいの軽い気持ちで考えていた。

実際にライブに行った。

初音ミクは確かにそこにいた。動いていた。語りかけていた。歌っていた。

会場を埋め尽くすペンライト。コロナウイルスの影響で声は出せない代わりに、私たちは電子で形成された彼女に必死に腕を振る。見えてるよ、まってたよ。

コロナ渦の中淡々と曲が流れていくコンサートのようなライブが生まれる中、あの日のマジカルミライは確かに「ライブ」だった。初音ミクが、鏡音リンが、鏡音レンが、巡音ルカが、MEIKOが、KAITOが動き、それに呼応して観客も動く。無言の中に、確かに電子でできた彼女たちと私たちのコミュニケーションが存在した。

最後の曲は、冒頭に紹介したキノピオピー氏による「愛されなくても君がいる」で幕を閉じた。

たとえ 愛されなくてもいいよ 君がいるなら
不器用な声 いつまでも届けるよ
大丈夫 愛されなくてもいいよ 君が望んだら
今日も 明日も 初音ミクでいられるの!

創作者の背中を押す歌詞であると同時に、愛されたからこそ、今のミクがいるということを強く感じる歌詞だった。私たちが初音ミクの存在を望む限り、彼女はずっとずっといてくれる。そんな彼女がライブの最後。本当に最後に私たちにこう語りかけた。

「愛してくれて、ありがとう。」

泣きそうになった。ただの電子ソフトだった彼女がここまで世界に愛されている。JOYSOUNDでのボーカロイドの配信楽曲数をご存じだろうか。6500曲以上だ。初音ミクだけで2000曲以上存在する。2000曲も登録されているアーティストが他にいるだろうか。これは2007年に彼女が誕生してからの、私たちが愛したコンテンツと愛された楽曲の何よりの証だ。

初音ミクという推しは、ボーカロイドというコンテンツは、きっと誰からも忘れられるまで死なない。私たちの誰かが、創作をし続ける限り、彼女たちはいなくならない。「想いが紡ぎ続ける推し」は、いなくならない。


改めて、初音ミクを、マジカルミライを、ボーカロイドというコンテンツに触れられ、たくさんの創作物に触れ、二次創作まで味わえる今の時代に感謝した。だからこそ私はライブの最後の彼女の言葉にこう返したい。

「愛させてくれて、ありがとう。」

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