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【短編小説】眼鏡のない世界

太陽が作りだす蜃気楼の下で、僕とは無関係に数多の蝉が団欒と鳴き合っている。

僕はなんとなしに家を出た。
行く当てもなく、ただ澱んだ川に沿って歩いていた。
アスファルトは舗装されているはずなのに、足を踏み出すたびにつまずいた。膝から滲み出た血液がグレーのスウェットに浸透し、アメーバのように広がっていく。それでも僕は歩くことをやめなかった。
僕の足は山に向かっているようで、北へ北へと進んでいった。代り映えしない住宅街が続くせいで、自分がどこまで進んだのかはまったくわからない。
僕は山に行って、いったい何をするつもりなのだろう。
まるで自分が理解困難な他者であるかのように、自分という存在が曖昧かつ異様に感じられる。
僕は何者なのか、たしか物書きだったはずだが、何を書いていたのかすらも思い出せないので、きっと物書きではないのだろう。仮に物書きだったとしても、もう僕には書く物は何もない気がする。
名前すら思い出せない僕は、いったい他人に自分が誰なのかをどう説明すればよいのだろうか。
名前以外で自分を構成するものはなんだろう。
この眼鏡か、それとも妻か。
僕に妻がいたことは記憶している。けれども妻の顔や名前は思い出せない。いまも妻がいるかどうかすらわからない。ひょっとしたら僕を捨てて、ここから遠い場所に住んでいるかもしれない。その方がいい。その方が……。
住宅街を抜けたのだろうか、数分前とはまるで違う空間にいる。
すべての輪郭線が溶け合い、緑と黒と黄色がかった白に支配される。どこからか聞こえる川の音だけが僕を安堵させた。その安堵を掻き消すように、前方からクラクションが鳴り響く。よろめいた体勢で左脇を覗くと、ゴッホが描く糸杉のように深緑がゆらゆら揺らめいていた。
その光景を見て、不安と同時にやはり安堵を覚えた。
それは川の音を聞いた時のものとは違う。川が川ではなくなったことによる安堵である。この安堵は同じようで、その質は天国と地獄ほどの差がある。
この世界のすべての事物が僕同様に名前を失い、ただのオブジェと化したのだ。もう僕だけじゃない。孤独を感じることもない。僕は自由になったんだ。
同時に感じていた不安は、体内から溢れ出る汗となって体の外へひょろひょろと抜けていった。
抽象の世界に自らも溶けていく。
そこに戸惑いはなかった。
緑が徐々に深くなっていった。
すると、前方からバリバリバリという大地を踏み潰す音と同時に、激しい閃光が僕だったものを弾き飛ばした。少し遅れてクラクションが聞こえた。
傷ついた大地を癒すように僕の血がじんわりと辺りに染みわたっていく。木々の香りが一帯を包み、混ざりあった動植物のざわめきが共鳴し、一つとなる。
なんとも言えない多幸感がひしひしと全身を包み込んでいく。
きっと僕は生まれた時から森を目指していたのだ。その森に今日やっとたどり着いた。もう「僕」ではなく「僕ら」と呼ぶ方が適切かもしれない。
しかし、不幸は「僕」だけを襲う。
意識が時切れる寸前、なぜか妻の顔を思い出した。タレ目で団子鼻で口元にホクロがある。僕は、笑うとエクボができる、その朗らかで温かい笑顔を見るのが好きだった。
抽象の世界に突如として現れた具体的な彼女が、僕を大地から引き剥がし、再び孤独な世界へと連れ戻す。
大地の音が解け、不協和音に戻ったのを最後に、僕は僕としての死を迎えた。

(1381文字)


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