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【書物シリーズ】

つづき。

店主はにこにこと微笑みながら、俺の前にティーカップを置いた。
アンティークな青いカップの中身をおそるおそる覗き込む。

「え?お湯?」

底が透き通るほど透明な液体から、ゆらゆらとほのかな湯気が立つ。

「すみません。お湯って、どう言うことですか?」
内心、からかわれてるんじゃないかと思いながら店主に問う。

「まぁ、見た目はそう見えますよね。」

見た目もなにも、それ以外に何があるんだ。

そう思いながらただただ固まっていた。
想定外が重なりすぎて、全く理解ができていない。しかし、、出されたものを飲まないのは失礼な気がして、おそるおそる手をティーカップに近づけた。
こういうところに、営業で身にいてしまった仕事の癖がついているのかもしれない。
出されたものは、すぐに飲み干すこと。
残して帰るのは失礼だ。
入社した後の教育でこんこんと教わったもんだ。

「いただきます…。」

店主は背中を向けて何か作業をしているようだが、若干口角がきゅっと上がったのが見えた。
召し上がれ、とでも言っているかのように、微笑んだようだ。

ごくり。

一口お湯を口に含ませた。

え?

温かい飲み物が口に入ると認識していたはずだったが…

「つ、冷たい…。」
「あまい…?」

「…ばぁちゃんが作ってくれたミルクセーキの味がする…。」

幼い頃、両親共に共働きの家庭で育ったからか、学校から帰るといつも、お婆ちゃんがミルクセーキを作って待っていてくれたのだ。
今はもう飲むことはできないはずのその味が、店主の入れたティーカップから口の中に広がってくる…。

なんで?
どう見たってお湯だろうが。
なんで、婆ちゃんのミルクセーキの味がするんだ?
俺が疲れてるのか?味覚が鈍っている…以外に考えられない…。

店主がゆっくりとこちらを向いて微笑んだ。
「その味は、あなたをどんな気持ちにさせてくれますか?」

「この味は…。」

優しくて、あたたかい婆ちゃんを思い出す。
両親とあまり一緒にいられず寂しかった時も、
学校で嫌なことがあった時も。
このミルクセーキの甘さと婆ちゃんの笑い声のおかげで、俺も寂しさや不満、もどかしさを和らげることが出来た。

「懐かしいなぁ…。」

忙しさを理由にして、時間に追われて、
毎日なんとなく付けるニュースやテレビで適当に
トレンドだけチェックして…。
仕事以外は家に寝に帰るような生活で、休みの日は家で睡眠貯金をして過ごすだけの日々。

昔のことを思い出すこともなければ、
自分について考えることもなく、
こんなふうにゆっくり喫茶店にひとりで入って過ごす時間もなかったように思う…。

「あなたは最近、自分を生きていなかったように思いますね。」
店主が突然、微笑みながら話しかけてきた。

「え?俺、生きてましたよ…?」
少し驚きながらも、おそるおそる否定する。

すると店主は、くすくす笑いながら
「分かってます、分かってます。(笑)でも、生きてるけど、生きてないんですよ。分かりますか?あなたは、誰の人生を生きているのかって話ですよ。(笑)」
「誰の…人生を…?」
「お婆さまは、あなたによく、何と声をかけておられましたか?」

婆ちゃんは… 

婆ちゃんはよく、幼い俺に
「受理。あんたはね、そのまんまでいいんだよ。あんたの代わりはいないもんでね。自分に正直に生きるんだよ。」

ずっと忘れてたのに、店主からの問いかけで
頭の中の奥のタンスから引き出しが引っ張り出されたようだ。
婆ちゃんに言われた言葉がじわじわと蘇ってきた。

「皆さんね、大人になるにつれて忘れるんです。自分のこと。それは、ある程度仕方がないんですよ。社会で生きる為に、学ばなければならないこと、身につけなければいけないことも多いから。そしてそれが続いてしまうと、気づいた時にはふと見失うんです。そもそも、自分てどうだった?って。」
無言で店主を見つめていると、店主は珍しく続けて語りかけてくる。

「上司に頭を下げて、お客様に頭を下げて、その人間関係や狭い社会でなんとか過ごすために相手に合わせて、相手のことばかり考えちゃうんですよね。あなたみたいに、普通で真面目な人ほど、きっとそうなんじゃないかな?すんなり受け入れちゃうから。でもそうなると、相手の正解、その狭い世界での正解に合わせにいってしまうから、自分の軸がぶれるどころか、いなくなっちゃうんですよね。仕方がないんですけど、でも、もったいないことでもあるなぁと、僕は思います。」

店主の話すことが、自分の社会人になってからの日常に重なる。
確かに、会社の集まりや打ち合わせでお店を選ぶ時は、上司が好きな店、好きなメニューがあるところを選ぶ。お客様と商談しやすいような、静かな個室のカフェなんかもお決まりだ。
書類の作り方も会社のルールや上司の好みに沿うように作る。
労働時間は決められていて、その時間に間に合うように電車通勤をして、常に時間に管理されている。
服はもちろんスーツと革靴、鞄はビジネスバッグ。
自分が悪くないなぁと思うことでも、ちょっと理不尽だなと思っても、上司の言うことには逆らえない。
それが当たり前だと思ってた。
そういうルールがあって、それが社会人ということなのだと。

でも。。

そういうものではあるけれども、俺はいつの間にか自分がよく分からなくなっていたかもしれない。
好きな食べ物は何?行きたいところはどこ?と言われても、パッと瞬間的に答えられる自信がない。

つづく。

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