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金曜最多19798人/25743北京五輪開会式、太田省吾論by西堂読む~669日目

 都内新規感染は金曜最多19798人/25743、都基準重症者41人(∔3)、オミクロン株の特性を踏まえた新たな基準で集計した重症の患者は3日時点で129人。死亡8人
 病床使用率54.1%(3744人/6919床)、(前日時点)オミクロン株の特性を踏まえた重症者用病床使用率17.2%(129人/750床)
 国内死者100人超え、昨年6月3日以来

 北京冬季オリンピック開会式、観てないが。帰宅後、途中からネットで観る。
 過激派組織「イスラム国」(IS)指導者が家族巻き込み自爆、米軍の特殊部隊が急襲し殺害

西堂行人『ゆっくりの美学—太田省吾の劇宇宙』

 西堂行人(こうじん)『ゆっくりの美学―太田省吾の劇宇宙』(作品社、2022、2800円∔税)をざっくり読む。これは、田中泯を犬童一心監督が切り取って表現した映画『名付けようのない踊り』を観た(昨日2021/2/3のnote)直後に寄った本屋で、高いけど勢いで買ってしまった本である。新刊の書評にあったのだ。太田省吾(1939~2007)は故人。昨年末、さいたまゴールド・シアター最終公演で彼の代表作『水の駅』を観てから気になっていたのと、言葉を身体に宿しつつ場踊りをする田中泯と重なり、かつ、これからある台詞がないらしい劇を観に行く。のだ(観た、ううううむ)。で、読む(読んだ)。
 太田省吾自らの論集は読んだことはない。
 
 さて、西堂さん、これは過去の文章、論考とか対談をまとめたやつではないか! まあ、いい、知らなかったことを知ることができた気がする。あくまで、西堂氏が切り取った太田省吾、そして西堂氏は太田省吾が肺がんで亡くなった年齢の67歳になるという。西堂氏が話す場面は何度か見たし、著書も読んでいる、ま、よしとしよう。
 西堂行人=1954年生まれ。演劇評論家、明治学院大文学部教授芸術学科教授(2017年度新設「演劇身体表現コース」)


2000年前後に太田と西堂が考えた「日本の現代演劇の行く末」

 さて、『水の駅』をはじめとした沈黙劇について知りたくて読み始めたが、日本の現代演劇全般に関するテーマが取り上げられており、興味深い。

沈黙劇、言葉、裸形(らぎょう)、なにもかもなくしてみる
・アングラ演劇後の日本の現代演劇の行く末
  劇団制からプロデュース制
  新劇とアングラと小劇場と
  大学での演劇教育
・新国立劇場をどうするか(2001年時点、演劇部門のみ国は民営化しようとしていた)
 などを書いている。
 逆に、沈黙劇以外の項の方が気になった個所が多かった。少し長いが引用させてもらおう。

劇団、プロデュース、それぞれの欠点とその先

 太田は1968年(29歳)に「転形劇場」設立に参加し、70年(31歳)にはその主宰となり、88年(49歳)に解散した。その後はプロデュース公演なども手掛け、99年(60歳)に京都造形大映像・舞台芸術学科教授に就任。
 劇団に書く時にあったプレッシャーから、劇団解散後は「解放された」としつつも、劇団及びプロデュースのそれぞれの欠点、利点を挙げる。このテーマは現在も多くの演劇関係者が頭を悩ませているところだろう。

太田 (略)劇団というのはやはり運動体というのか、演出家があって演出家の命令によってわが内なる劇作家が書くという感じがする。自己分裂をしながら、そこがパワーの出所だと思う。
(略)今のようにプロデュースという形でやっていくと、どうしても集中しどころがはっきりしない。やはり無駄なようでも、ずっと時間を共有している状態というのがないといけない。この間もある公演をやったのですが、言葉がとにかく通じない感じがする。通じるようにするには、人間同士が相当な時間を共有していないといけない。それが一番あらわれるのが演技です。
 (略)結局は演劇には集団が必要だということになるかもしれない。しかし(略)一定の良さはあったのですが、要するに閉じこもる、世界をあまり観ない、それによって集中力を発揮してやっていくということだった。(略)一人の劇作家、演出家の仕事で集団をやっていくというのは不健康ですね。いつも二十何人が出演する芝居を要求されるしプレッシャーになっていく。(2005年の西堂対談)

『ゆっくりの美学—太田省吾の劇宇宙』61-63p(太字は私) 

 で、太田、西堂両氏、共に憂えている。

太田 個人的な才能というものに散らばっていって生き残るしかなくなってしまった。
西堂 個人の才能というのは、結局ある何人かが生き残って、それが資本の中でプロデュースされていって選抜されたものだけが生き残るということですね。他はみんな死に絶える。このやり方が演劇を豊かにしているのかどうか。(略)小劇団が面白かったのは、悪い意味ではなく、こんな下手な人でも舞台にでているのかという驚きでした。つまり。多彩、多様性ですね。(2005年対談)

同書64p

俳優が反乱を起こさなくなっている、「低さ」の演劇

 自分は以前、ある新作戯曲の台本構成・設定にどうも納得がいかず、多少(遠慮してますな)あれ・これ言ったが、その時周囲の一部から「台本をいただくだけでもありがたい」「そうだそうだ」の声が起きたのには、正直ぞっとした。
 で、俳優は反乱しなくなったらしい。

西堂 (略)今の演劇(略)一番衰弱しているのは、俳優術じゃないかと思う。(略)今、どんどん作家の芝居になっていると思うんですね。つまりそれは、俳優が演出家なり、創造上の権力に対して反乱を起こさなくなっているからだと思う。(略)例えば、劇作家が非常に抽象的で難解な芝居を書く。そうすると俳優が、「わたしはこんな台詞は喋れません」と文句を言う。反乱ではなくて、文句を言う。そうすると、劇作家が「じゃあ、あなたの喋りやすいように書き直しましょう」と言って、書き直していく。(略)そこで出てくる舞台というのは、いわば「日常の写し絵」になっていく
 (略)だから、むずかしい本を読んで向上しようとか、挑戦しようといったことを一切考えなくて、「今」をやっていればいいんだ、と。劇作家のほうは、仮に力量があっても、そこに降りていかなくちゃならない。そこで今の演劇は、「低さ」で成立しているんじゃないか。(2000年の太田対談)

同書99-100p(太字は私)

 低い演劇に「発見」はあるのか、客側としても問いたい。

演劇を問うことをせず「とりあえずの今日」を歩む演劇人

 演劇への問いをしているように見えない演劇人、演出家の言うことを聞いて目の前の公演をひたすらこなす、その演出家たちも目の前のことをこなすというか「派閥」「流派」で自分を守るというか、を見たような、見ないような。

 太田 (略)ピーター・ブルックの言葉なんだけど、演劇人はいつも公演に追われていて、「やたら忙しく、重要な問い、演劇そのものを問いただす問い――なぜ演劇が必要なのか、何に拍手するのか、演劇は何を探り出すことができるのか――といった問いを発するひまがないのだ」と言ってますけど、それはひまの問題ではない。(略)「とりあえずの今日」という生き方しか生きられない、現代人の生のあり方の問題のように見えます。演劇はそれを問う役割があるはずなんだけど、「とりあえずの今日」をひたすら歩んでいる。(2000年の西堂対談)

『ゆっくりの美学—太田省吾の劇宇宙』113p(太字は私)

 最近の、新国立劇場「こつこつプロジェクト」を想起。成果がすぐに可視化できず、今現在好評なのか不評なのか素人には非常にわかりにくいものだが、中長期的に見れば「とりあえずの今日」をとっぱらった試みだろう。
 繰り返すが、観客にはわかりにくい。しかし、それは仕方ないものか。信じてゆだねるしかないか。

 一年間、3〜4か月ごとに試演を重ね、その都度、演出家と芸術監督、制作スタッフが協議を重ね、上演作品がどの方向に育っていくのか、またその方向性が妥当なのか、そしてその先の展望にどのような可能性が待っているのかを見極めていくプロジェクトです。
 時間に追われない稽古のなかで、作り手の全員が問題意識を共有し、作品への理解を深め、舞台芸術の奥深い豊かさを一人でも多くの観客の方々に伝えられる公演となることを目標とします。

「こつこつプロジェクト」(新国立劇場HPより)

新劇とは「目明き」による「啓蒙」だったのか

 新劇とは「目明き」による「啓蒙」だったのか。

太田 (前略)近代(新劇)とは「目明き」のことです。つまり、すべてを知っている「目明き」が大衆を啓蒙する。それに対してアングラは、唐十郎の言葉もこの「訥弁性」に本質がありました。鈴木(忠志)ー別役(実)ラインも「訥弁性」が特徴的です。(略)この「訥弁」の先に「沈黙」があったわけです。(2006年の西堂対談)

『ゆっくりの美学—太田省吾の劇宇宙』131p(太字は私)

当事者以外は何も言えないのはおかしい、そうでしょ!

  沖縄、韓国、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ。。
 当事者の苦しさ、重みを心底からわかることはない。ただ、あまりに遠慮、忖度することはないのではないか、とも時々思う。福島はまだ生々しすぎるけれど。

 「当事者」の体験の重みは、たしかに疑いのないものである。けれども、当事者でない者は何も言えなくなるという事態は決して健全なものではない。(西堂)(2011、2012加筆)

同書203p

アングラ、小劇場の「衰退」

 アングラは「素人」が「徒手空拳」で演劇を開始したことに意義があった。(略)「素人」性に依拠し、非-知を装うことは、もはや「方法」ではなくなり、八〇年代以降の小劇場は、文字通り「無知化」してしまったからだ。(西堂2007)

同書223p

  アングラ、小劇場の衰退。といって、新劇が全盛に戻ったわけでもない、今。

 んー。やはりプロデュース公演の話か、肝は。それが俳優、演劇界の育ちにつながる。
 といっても、これらの文章は、20年くらいも前のものなのだ。今更だが。でも、今更だが、常に演劇のことを考え続けている人たちだからこそ、あふれ出てきた言葉と思った。
 西堂さん、ありがとう。太田さん、ありがとう。

 皆さまのご健康を。


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