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新海誠と功利主義

こんばんは。先日、Unextで配信が解禁になった「天気の子」を鑑賞し、新海誠監督の作品について考えてみた。僕はそもそもアニメ映画はそこまでみない。ジブリは時間ができたらもう一度見直したいと思っているが、、、。アニメ映画をみない理由は、2つある。そもそも映画という形式を使う必要のあるアニメ映画が少ないと感じるから。日本で有名なアニメ映画はほとんどが商業用として紋切り型に作られた映画になっている。そしてそれらが日本の市場をほとんど占めている実態である。それ自体が映画である必要はないのだ。多分金曜ロードショーで十分。

 もう1つの理由はアニメ映画には主題があまりないと感じてしまうから。もちろん僕はアニメ映画を網羅している訳ではないので、もし社会的テーマをあつかったアニメ映画があるのなら教えて欲しい。ただ、このNOTEにいつも書いてる通り、僕の好きな映画の条件として、監督としてのシグニチャー社会的なテーマ性がそなわってる必要がある。以上の理由からアニメ映画についてはあまり惹かれないが、新海誠という現代を代表するアニメ映画のポップアイコンとなった彼のシグニチャーには惹かれる点が多い。以下では彼の作家としての最大のテーマがどう僕の琴線に触れたのかを説明していく。

大切な人か最大多数の最大幸福か

この、大切な人か最大多数の最大幸福かというのは新海誠の究極のテーマだと思う。新海さんの映画の主題は一貫してこれになる。例えば「雲の向こう、約束の場所」では戦争によって分断された世界を救うか、一人の大切な人を救うかが主題に置かれているし、「君の名は。」では1つの町を救う代わりに大切な人との記憶を消されるという同じく二者択一構造になってる。まぁ最終的にはすれ違った時にちょっと思い出すっていうオチだが。。そして今回の「天気の子」はまさにこの究極のテーマを扱っている。さらに今回は、「君の名は。」のようなご都合主義が存在しないので、オーディエンスに対して問いかけで終わっている。さて、この「大切な一人の命かそれともその他大人数の命か」というテーゼは哲学の分野で昔から議論を生んでいる。その代表例となるのが、ベンサムの功利主義である。なんとなく、高校の哲学の時間でならったことがあるような、という人も多いのでは。功利主義とは「最大多数の最大幸福」という文言で有名だ。これは社会全体で行為Aが行為Bよりも多くの人々に快楽をあたえるのであれば行為Aのほうが”正しい行い”になるのではないかといったものである。よく、トロッコ問題の時に引用される考え方の1つだ。そして、この命題には正解はない。ベンサム以降にでてきたJ.Sミルも一部ではベンサムに異論を唱え、一部では賛同している。

そして、新海監督はこの功利主義についてどのように考えているのか彼の作品から僕なりに考察してみる。一言でいうのであれば、彼の考える功利主義とは「社会全体の幸福を優先しながらも結局は自分自身の限界に気づいてしまい、ミニマルな世界での幸福を選ぶ」なのではないか。(全然一言ではまとめられなかった)。「天気の子」をみて僕はそう感じとった。天気の子の主題はいわずもがな「気候変動」だろう。ヒロインのヒナは八月に雪が降るといった異常気象をとめるため、人類(あるいは東京?)の犠牲になることを選ぶ。主人公のホダカが奇しくも彼女の運命を決めてしまうのだ。結局ホダカは地球を捨て、ヒナをとる。この流れをマクロな視点でみると、一旦は社会全体の利益を選択した二人だが、社会の無関心さに憤りを感じ、結局は自分たちの利益を優先したように見える。これってようは気候変動への警笛を国連で主張したグレタ・トゥーンベリさんが世界中からバックラッシュを受け、萎縮してしまうといった構図と似ている。結局、世界の大多数の人たちは、「天気の子」の終盤に出てきた、「100年前の日本に戻っただけ」や「世界はもともと狂っている」といった考えなのであって、この現実に向き合った時にどれだけ人事を尽くせるかといった問いかけが新海監督のこの映画にこめたメッセージだと感じた。

 今日、新型コロナウイルスによって、人類の活動が縮小し、その結果、空気が綺麗になった(定量的に)。環境問題に対し保守派の人たちもこのニュースは看過できないだろう。こういったケースは世界中で多発している。これにより環境問題を諦めるのは時期尚早なんだと気づく人が一人でも多くなるといいと思う。さらに来月から、大手コンビニではレジ袋が有料化する。こういったミニマルな活動から僕たちは環境問題に貢献できるのだ。だから、ニヒルになることも、悲観的になることもない。一人一人ができることを愚直にすれば「僕たちは大丈夫」なのではないか。

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