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世間と出世間

なので(?)、世間でどう振る舞うか
という指針もあっていいのだろうと思う

ただ、それはやっぱり
どこまでが「自分」の範疇、「自分」の意思決定下なのか
とか考えない場合(世間)に限る

そこを考えない前提(そもそもそんな前提成り立たないけど)で、心理学でいうところの「投影」もありだと思う

つまりは「隣人を愛せ」

隣人はあなたの投影なのだから愛せるでしょうと
だって、あなたが必死に守っているのは
愛しているのはあなたなのでしょ?
いつもいつも周りが間違っていて、自分が正しいとするのは
自分だけを愛しているからでしょ?

でも、隣人はあなたの投影なのだから
同じように愛しなさいよ、という
少々(いや実に)わかりにくいアクロバット的解決法なのだと思う

いち個人の投影だなんて、マジで頭がおかしくなりそうな
ひねくれた解釈(ムリ強め)だとは思うけれど
そうだとして
あなたの投影がそのまま映し出されているのだとして
で、あなたはあなたの中身?のクリーニングなのかクリアリングなのか、まぁなんでもいいけどに励んで
その結果が世界に現れる、のであれば
おおいにその現れた結果をどうであれ愛して欲しいと思う

思ってたんと違う、は「なし」だ

このように改善したのだから、世界に現れるべきものはこれだ!などと言わないで欲しい

え?なに言ってるかわからない?
そうだね…たとえばさ
嫌な人に出会った、マナーの悪い人に出会ったとして
これは私の投影だからと私の改善に励むよね
なんだろう、具体的には人を恨まないとか?
愛想良くするとか?マナーを守るとかなのかな?わからないけれど
で、その結果
嫌な人に出会わない、マナーの悪い人に出会わない、なんて結果だけを愛する(求める)のはやめようね、ってこと

嫌な人に出会った、マナーの悪い人に出会っても大丈夫、が改善なのだから

あれ?なんかおかしい?

このあたりの解釈を間違えているから
いつまでも世間だけなのだというパラドックスに気づいて欲しい


冒頭に
世間でどう振る舞うか
という指針もあっていいのだろうと思うと書いたけれど
指針は世間内にとどまるものなはずがないのだから
そこだけだ

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