(連載43)音楽のテクニックなしでバンドをはじめた:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:2004年-2005年
前回からの続きであります。
1999年から「セックス・ロバ」という名前のバンドで、ライブを100回以上やったんですよ。。。。。。。
なのに音楽ができない?
え? どういうこと?
ですよね?
なんか、、、これが自分の、、、中で、負い目になっていったんです。
人に「アタシ、バンドやってんだ〜」って言って、「へえ!担当は?」ってきかれて
「踊りとヌンチャク!!」。。て。。。苦笑
今、考えるとですよ。それはそれで、堂々としてたらいいのに。。。。。。なんだか、当時は、そんな自分が情けなく感じるようになっていったんです。
バンドやってるんだったら、ギター弾いたり、歌ったり、曲書いたりしたいな〜って。
実はその、、、、、何もひとつもできないくせに、
ミュージシャンって呼ばれるようになりたいなー。
と漠然と、思い始めてしまったんです。
これが前回のあらすじでありました。
そんな、こんな、うすーーーーい霞のような日々が続いております時に、
ある日。封筒が届いたんです。
なんだろう?と開けてみると、
それは、小切手だった。
あ、よく銀行から送られてくる、営業用の小切手で金額がすでに書いてあっる、なんかオモチャみたいなやつ??
と、思ったら。。。6、、0ってみえた。
金額も60ドル、ゼロゼロ、セントみたいな。。。。??
それが
よく見たら、$6000だったのだ!
漢字だと、六千!
ひえ〜〜!!!
なんですか? これ??
アルバイト(ギグワーク)で生計を立ててた私には、6000ドルなんて、大金!!!
ななな、な、なんだこれは?
名前も私あてになってるし。。。。。
差出人を見たら、なんとかファンデイションとなっていた。
それで思い出したのだ。
これは、あの汚れの首輪のドレスで、応募してみた奨学金だったのだ。
「汚れの首輪」については連載38に詳しく書きましたので、もし、よろしければ。。。。。
お話を続けさせて頂きます。
半年くらい前にさかのぼり、思い起こせば、サンフランシスコの美術館で、「ウェディング」のテーマの展示があり、私も汚れの首輪(メンズシャツの汚れた襟)で作った、ウェディングドレスを展示させてもらっていたのです。これですが。。。。
そして、その展覧会の後に、関係者からのメイルで、「こういう奨学金制度がありますが、応募しませんか?」という手紙がきた。せっかく誘ってもらって、断っても申し訳ないな〜と思い、奨学金の申請なんて、やったことないけど、、、、、と、一応書類などを送って応募していたのであった、、、
だいたい、私は昔から、そう言うことには、まったく縁がなくて、一度も選ばれたりした事がなかったので、興味もなく、応募したことすらも忘れていた。
それが、突然、6000ドルが送られてきたんですよ!
たしか応募した時のは「汚れの首輪のファッションショーがしたい」という目的だったと記憶、つまり、この6000ドルが、それを実現させるための援助金?のようなものだったので、
こ、これは、もう
もうこれは運命だと思い、
まず、このお金でギターを買った。。。
つまり、ファッションショーをやるには音楽が必要で、
その音楽を作るためにはギターが必要。だと。
かなり正統な理由だった!!
自分的には。。。。汗
当たり前の納得ができるお金の使い方だ!!
自分的には。。。。。汗
そう思って、
はい!!!エレキを買いました。ジミヘンと同じ。
フェンダーのストラトキャスターってやつ。
実は、これが、どういうギターか、よーわかりませんでしたが。
直感だけで。。。コレにした!!
スイッチをいれて、まずは、ディストーション!!
グウィウィウィウィイ〜〜ん!!
もう最高!!ええええーーーーわーーーー
もうこれで、後戻りはできなくなった。
セックスロバの相棒、ケビンにギター買ったと告げると、
「セックスロバはギターのバンドじゃない!第一、君はギター弾けるの?」
と、きっぱり言われた。
え。。。と。。。。
弾けないス。
C とG とAm のスリーコードぐらい。。。
「でも、一生懸命、練習するからさ〜〜。」と、賢明に頼んでみたけど、
どう考えたって、そんなん、待てる、、わけないですよね。
私がケビンでも断るわい!!!
で、ワタシは、と言えば、、、、ですね。
身の程知らずに
だったら、もう自分でやるわ!!!
と。なってしまったんですよー。汗
またしても運命が変わった一瞬でありました!!!
スリーコードでも、パンクのバンドだったらできるのでは??と。
ラモーンズを見よ! スリーコードで、しかも、曲も短いし。
あの、ベルベッツのルー・リードだって、コードは最初三つしかできなかったってインタビューで「コードを4つ引くなんて、もうジャズだよ。」って言ってたし。
Cだけの曲があったって、いいじゃんと思った。(真剣に)
F がない曲の、何が悪い?とも思った。
(どんだけ、自分にやさしい性格?)
手が小さいから、指どどかないだけで、届かないから弾かないだけさ。
超!!!
それで、結局は、ついに私は、
ギターも弾けないのに、自分のバンドを始めることになっちまった〜〜。汗
年齢は、内緒ですが、50代にのりあげる手前!もう、厚化粧にズラは必須であります!!笑
そして、バンドの名前もさっさと決めた。
それは、
ジャンポール・ヤマモト!!!
80年代、ブイブイいわせてファッション・デザイナーの「ジャンポール・ゴルティエ」と「ヨージ・ヤマモト」の名前をとって、(ヤマモトはうちの母の実家の名前でもあった)
しかし、人によっては、「ジャンポール・サルトル」と「ヤマモト五十六」とも言えるでありましょうし、
また、ある人によっていは、「ジャンポール=ベルモンド」と「山本リンダ」とも考えられるでありましょう。
フランス人の友達にどう思うか聞いたら、すごく笑える!って言ってたんで、これはイケる!!と。
このロゴもさっさと、日本の友達、アモーレ・ひろすけ君に作ってもらった。
そして、バンドの形式は、以前のセックスロバと同じような形。それしか、わからんし。。。。もちろんテルミンはありませんが、そのかわりにギター。
音楽ソフトで、まずバックトラックを作って、それにライブでは、ギター、ボーカルがナマ音で、追加されるというものです。
で、まず、曲を書こう。。。。。。
まず、音楽のソフトの勉強。。。。家庭教師として、友人から若い男の子を紹介してもらって、コンピュータも苦手な私が、もういわれるままに、キューベースとリーズン(音楽ソフト)を買って、こうしろああしろと、いわれるままに、ハンサムな彼に従った。(感謝)
そして、もちろん、ギターも先生を探した。
日本人のジャズ・ギターのプロのやさしい男の先生が、破格の授業料で家にきてくれるようになった。(感謝)
まず、いわれるままに、シーケンサーにリズムをいれて、ベースを入れたら、質の悪くセンスもないカラオケ音源くらいにはなった。笑
そして、根気のある先生のおかげで、なんとか3コードが、5コードぐらいには、なった。でも 作曲の時に Fは さけた。
はじめて作った曲は、変な曲。
パンクと演歌がいっしょになったような。
セックス・ピストルズと都はるみを交互に繰り返して歌う曲。
ノーフューチャー・ノーチューチャー、ノーチューチャー
さよ〜おうなら、さよ〜うおうなら、元気でいいてえね〜〜。
と。
二曲目に作ったのは、レッドツッペリンの「移民の歌」をパクった。
最初のあ〜〜〜あ〜〜〜〜あ〜〜〜ってとこです。それを延々と続けて、
打ち込みでできるベースはまったく変えて、ファンキーなラインにした。
これは実際、弾けなくても音を決めるだけなので、技術なしでオッケー。
そのトラックに被せるライブの時の私のギターは、もちろんスリーコードで、ガチャガチャかき鳴らす打楽器仕様です。
すべてが、下手くそなので、逆に絶対にパクってるのが、わからないだろうと思っていたのに、「あのツッペリンの曲、よかったよー」と、あとで言われて、なんで、わかったんだろ?って、がっかりしたんですがー。苦笑
ともかく、そんなへんてこりんな、バックトラックを作って、これでいっしょにライブやらない?と、周りで音楽やって人に声をかけながら、突貫工事で作った家のような自分のバンド、「ジャンポール・ヤマモト」は、始まった。
ライブごとに、人をつのって、バックトラックがあるので、聞いてもらって、気にいったら、参加する。リハーサルも最小限。しかも私は、あんまり音楽の事はわからないので、なんでもいいよ〜〜おまかせ〜〜みたいな。。。。。ユルユル。。。。
今から考えたら、
無責任で、かなりいい加減だった。。。苦笑
それでもなんとか初回のデビューは果たし、相棒のケビンも来てくれた。
もうスタイルはカッコ良かったス(笑)が、音は もちろん、散々でしたね。多分、、、
「ギターがぜんぜん聞こえなかったよ〜。」ってケビンから言われて。
でも、実は心の中で「ラッキー!!」って思ったんです。
お話がズレますが、この記念すべきデビューをいしょにやってくれたのは、ランス・ロックという人なのですが、
彼は、この5年後に「ヨー・ガバガバ」という子供番組のメインキャラ、DJ ランス・ロックとして、爆発的に有名になったんですよ。
この番組は、ケビンもオリジナルメンバーのひとりで、音楽スタッフに加わり、番組で使われる音はほとんどが、シンセベースの、ぴこぴこの、センスのいいエレクトロニカ!
ゲストもちょっとキャラのあるミュージシャンが多く、はじめは知る人ぞ知るクールな大人向け(親)の子供番組で、身内の間だけで、カルトな人気だったのですが、
ある日。突然! 「ブラッド・ピットのハロウィーンの衣装が、
DJ ランス・ロックだった」というのが、雑誌に出てて。。。。
これで話題騒然となり、その後は、あれよあれよという間に、ニューヨークのデパート、メーシーズのパレードの出たり、ホワイトハウスに招待されたりしたのでした。(オバマ前大統領とも会った!!)
このデビューの頃は、まさか後にそうなる人とは、夢にも思ってもなかったです。人生って面白いですね〜!!
と、、、、、人の人生に関心してる場合じゃないです!!!
話、もどります。。。。
で、どうにかこうにか、ライブをやってるうちに、ドラムはナマでやった方が迫力があるなあ〜。と思って、ドラマーを探したり、
そしたら、その友達のベースの人が「俺もやりたい」と言い出したり、
ダンサーもいたらいいな。とか、ラップもやりたいな。とかって、
だんだん関わっている人も増えていったんです。その時にその時、周りにいる人、暇がある人、やりたい人、お願いしま〜す。というゆるーい形ですよ。もちろんお金は無料。
なので、バンドというよりも、セッションみたいな?そんなノリ。。。
そうしてるうちに。。。。
何回も失敗をしながら、それにも懲りず、場数をこなしながら、
無理やりの曲数も少しずつ増えてゆき、これが、
奇跡的に!
だんだん形になりだした!(低いレベルですよ)
気がついたら、初めてギターを買った時からすでに、
あっという間に2年経っていた。
相変わらず、私のギターのコードはシンプルで、リズムに合わせて、ただ、ジャラジャラかき鳴らすだけで、、、、
しかし、ギターの先生から、コードの数は同じだが、かき鳴らす技術だけは上手くなった。と言われた。。。。。。
次回にづづく。。。。
L*
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