見出し画像

【短編】バーボンはもう甘い

おじさんしか生息していないのではないかという中野区の飲み屋街を歩いて、結局チェーンの寿司屋に入って、私は4杯、彼は6杯の酒を飲んだ。

信じている人生の形がもっと美しいものだったら、と思ったのは彼と出会う数年前のことで、彼に出会ってからは人生の全てをこの人にささげてもいいとすら思った。

私たちの横を車が何台も通り過ぎ、私たちが立ち止まった踏切の前で2回電車が轟音を響かせた。私は視界を遮ってくれる電車の存在を愛おしく思い、一生彼と手をつないだままで、電車がごうごういって通ってくれていたらどんなにいいだろうかと妄想した。

彼が我儘で連れてきた飲み屋街から、再び新宿まで戻る電車内で、彼のスマホはバイブ音を鳴らし始める。

「気にしないでね」

スマホを取り出して右手に握りながら、彼は私に笑いかけた。その笑顔が苦笑いとか微笑とか、そういう類の遠慮がちな何かであったならば、私は幾倍か幸せだっただろう。
彼が私に向けたのは満面の笑顔で、それは彼と関係を持っている私のあり方を下品なものにしている。
この電車に彼と乗るのは3回目で、彼と目の前のカップルを眺めるのは2回目であり、私は前回1度虚しい気持ちになって、今回は特に何も思わず、彼の手を握り続けることができた。

新宿駅で降りた時間は22時ほどだった。これから飲める店を探すのだと思うと、私は代えがたい快感を覚えた。明日が偶々2人とも平日休みであることも、私の気持ちの昂ぶりに拍車をかけた。

この時間になってもユニカビジョンはトップチャートの音楽を流し続けており、パチンコ屋は元気なままだった。私はこの夜の終盤になって本気を出し始める新宿をこの上なく愛している。だけどこの街を愛すきっかけになった彼の存在が、私にとっては一番大事だし、その彼を最愛の相手と思っている友梨佳という名の女性を、ぽっかりと空いた時空の穴みたいに眺めている。私が飲み込まれていくのは、その穴に向かってなのか、その穴をあけた彼に向かってなのかは、まだよく分からない。

彼が連れて行ってくれたのは真っ暗闇の中でバーボンが飲めるバーだった。私はバーボンソーダを頼んで、彼はロックで飲んだ。
私たちは店に入ってすぐ手前にあるカウンター席に座り、反対側の端っこにはまた別の男女が座っていた。
三木尾(=彼)は彼らを見た後に、私の耳元でこう言った。

「あのカップルの男の方、大学生なんだ」

私はそれが何を意味するのか分からなかった。
私は同じくらい静かなトーンで返答する。

「大学生だから何なの」
「あの女の子さ、大学生から貢いでもらって、その金で生活してるらしい」
「聞いたの?」
「聞いた、マスターから」

私の正面で煙草を吸う眼鏡をかけた長髪パーマが「マスター」なのかは定かではない。でも私はその男を見つめながら、バーボンソーダに口づけた。

「苦い」
「キャラメルの味しない?バーボンって」

私には分からなかった。彼がこのバーに私を連れてくることによって、何かを顕示しようとしているのが、そのバーボンソーダの味から分かった。彼の表情は、その推測を裏付けるものだった。私は彼を嫌悪した。その嫌悪が数秒後には忘れ去られるものだと知りながら。

「大学生ってさ、いいよな。まだ将来に可能性があるって信じられるんだから」
「ミキオは信じてないの?」
「信じてた頃もあったよ。でも段々信じられなくなってこない?自分にはできないことの方が多いんだって気付いてくるよ」

三木尾の横顔は彫刻のように整えられていて、この横顔をもってすれば世界の何もかもが彼の思うとおりにいくのではないかと感じさせるものだった。
そんな彼がこんな悲観的なことを言っている。私にはそれが酷く悲しいことに思えた。私自身もだいぶ虚しい存在なんじゃないかと思え始めた。

こんな虚しい私に広々とした可能性を見せてくれる彼は、どうしてこんなにニヒリストなんだろう。
ニヒリストは何も夢を見ない。だけどニヒリストを見て、無垢な若人は無垢な夢を見る。ニヒリストの見ている世界が、鮮やか且つ荒廃した知り得ない世界だと信じているからだ。
私は彼と同じ目線に到達する前に、その事を悟っている。
だけど彼から離れられない。単純に顔が良くて、頬の触り方が卑猥で、手を引く姿が淫靡だからかもしれない。

私は彼の方に頭をそっとおろした。頭部の右側からじんわりとした温度が伝わってくる。いつだってこれを欲していたのだ。難しいことを語るのは助走でしかなくて、誰だってこの暖かさを求めて人生を擦り減らし続ける。

「大学生っていいよな」

彼は同じことを言った。

「藤村操って知ってる?」

私は聞いた。

「何それ」
「日本で初めて、厭世観から自殺をした人」

彼はそれを聞いて少し考え込み、

「厭世観から自殺する人なんているかな」
「いたんだよ、明治時代の人」
「明治」
「そう、夏目漱石が病む原因を作った人だよ」

私は藤村の遺言を、あるアーティストのエッセイ集で知ったのだった。日本の山には自殺者向けの文言がある。

「夏目漱石が病んだのは神経症だからだろ」
「神経症なだけで病まないんだよ、周辺にある要因が重なって、人は病んで死ぬの」
「自殺は決定的だよ、複合物じゃない」
「なんで?」
「なんでも、そうしておくべきだよ。その方が悲しいから」

こうやって話しながら、三木尾のポケットにおさめられたスマホからバイブ音が定期的に鳴っていることに、私は気付いていた。

三木尾には無限大の奥深さがあるように感じられるが、時に極端な軽薄さが見られる。私はその軽薄さを塞ぐ絆創膏が如く、彼にひっつき、囁き、ペッティングをする。

チャージ量を含めたバカ高い金を三木尾が出す時、私は藤村操が女性との失恋を契機に自殺したとも言われていることを思い出した。
私は彼から離れたら死んでしまうつもりだ。家に戻り、好きでもない男に抱かれる夜は億劫だった。

だけど、彼は私が離れたらどうなるだろう。平気な顔をしつつ、首をくくるだろうか。彼の女は、彼が首をくくた理由など分からず、困惑しながら無表情で数日間過ごし、その後にむくむくと次のパートナーを探し始めるだろうか。

私は三木尾を通して、三木尾の女に向き合い、この社会を生きる人間が多少なりとも残酷さを持ち合わせなければならない事実に向き合っているのかもしれない。

新宿駅が見えてきた広場で、私が彼に後ろから抱き着いたのも、そういう意味の分からない執着からなのだろうか。

分からない。何度も言うように、彼は横顔がべらぼうに美しく、手をひいたり頬に触れる仕草がえっちなのだ。それだけなのだ、きっと、本当は。

私は小さくなる彼の後ろ姿に手を振り続ける自分の姿も、どこかしらえっちだと思っている。
三木尾が見えなくなったら、数秒して顔を引き締め、彼氏に電話をかける。
彼氏は、こんな時間まで何をしていたのか問い詰めてきた。

バーボンソーダの味を思い出し、次はロックで飲みたいなと思い、スマホを耳に当てながら謝罪を続ける私。そして彼が許してくれた瞬間に「好きだよ、ごめんね」と伝えつつ、寒さのせいか分からない震えに身を任せる。


この記事が参加している募集

#私の作品紹介

96,012件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?