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【短編】人がいない街の依子

依子の口角は裂けた。

不健康な食生活、入眠・起床のリズムについては自覚している。

しかし皮膚科の女医からは、ストレスも確実にありますよと注意を受けた。ストレスをため込みやすい所があると思います。できるだけ抱えないように、周りに相談したり気分転換をしてください。

依子自身は、ストレスというもの自体、よく分からなくなっていた。ストレスというものが何によって生まれるのか。いつか、屋上で先生に聞いたことがある。

ストレスというのは概ね期待からくるものだと思います。他者や環境に期待をして、その期待を下回る結果、期待と真逆の結果がかえってくる。そういう時に発生するのがストレスです。それは頭痛になったり腹痛になったり歯ぎしりになったり過食になったりオーバードーズに繋がったりもします。稀に、自らの命を絶つことにも。

あと、俺は先生じゃありません。まだ大学生ですから。

ストレスを抱えるとすれば、あなたのせいです。それのみです。病院を出た後、マンションの部屋に帰って依子は思う。

ベッドは無駄に大きい。大きいほうが寝やすいと思ったのだ。寝やすくはある。ただ、この大きなベッドは2人~3人ぐらいの男女が寝る想定で設計されており、そこに自分はひとりで寝ているという点に妙な申し訳なさを感じている。この申し訳なさも意味の分からない感情だ。可能であれば、このベッドを作った関係者に人間が1人もいない、というのが理想だ。寝具業界はAIに支配されていてほしい。それか、まるで人間とは呼べない、表情の死んだ人型の何かが作っていてほしい。

先生は、三木君は、人間じゃなかった。そう信じたかった。表情は死んでいた、全然笑顔が自然じゃなかった、気付けばノートに何かをカリカリ書いて、目はカメラのレンズみたいに丸くてきゅるきゅるしていた。そんな三木君なら、平気だと思っていた。触れても大丈夫なのではないかと思った。人間じゃないんだから。

結局、三木君は人間だったかもしれない。シーツを撫でる。明日の収録もあるし、台本覚えなきゃかなぁ。三木君は震えていた。彼はアンドロイドでもAI制御下にある生態ロボットでもなく、震えていた。依子はベッドから立ち上がり、暗闇によって鏡と化した窓の前で、ひとり、台詞を諳んじる。

完璧に覚えていた。あぁ、殿、お待ちくだされ、待ってはくれない、太閤殿下は暴走を続け、女子供の虐殺を繰り返し、兵士どもへの兵糧攻めは進み、城壁内でのカットが入って、餓えた兵士たちは死肉を喰らって自らの命をつなごうとする、次のシーンで依子はやつれ、黒ずんだ顔で暗い部屋に従者と2人。「もう、あのお方は」と呟き、そのままエンディング。

依子の演技は、「歴史上最も完成された演技」と評されることもあれば、「人間の事を少しも理解していない、不気味なほど下手糞な演技」と評されることもあった。評論家やブロガー、ファンは彼女について多くの議論を交わしている。単純に「顔がいい」、「キャラがいい」と言う人もいる。

依子は、こんな事が仕事と言えるのか、大学を出た後に上京して就職したときはこれの数億倍大変だったと本気で思っていた。

しかし、大変なお仕事なんでしょう、と初対面の人は決まって言ってくる。そこまで大変でしょうか。大変だと思いますよ、きっとストレスやプレッシャーが普通に働いている人と比べ物にならないと思います。

そうか、思い出した。いつのまにか床に寝転がる依子。あの日、就職面接でけちょんけちょんに罵倒された日に、自分は自分であることをやめたんだ。

何も考えず、面接をいくつか受け、採用通知が来たのか来ていないのか確認もせずに、あの潮風が臭い町に帰り、悠々自適に屋上のプールで過ごしていたのだ。最初はお父さんとかうるさかったけど。

いつの間にか、依子はシャワーを浴びていた。こんなことがよくあるのだ。
依子自身が意識せずとも、依子の体は動いている。
ただ、確実に、三木と触れ合おうとしたあの瞬間に、依子の体は依子の意思によってのみ動いていた。
三木は彼女を突き飛ばした。震えていた。機械のように、冷たかった男が。

シャンプーは知らぬ間にどんどん送られてくる。シャンプーと一緒に自分の顔をあげると、お金が入り、シャンプーも補充される。コンディショナーもボディソープも、化粧水もクリームも何でも、色々なものが届いている。
どれがよかったか、ユーチューブで配信するというのは?とマネージャーが提案して来たけど、どれを使っても変わらないですよと依子は返した。マネージャーは依子の顔をまじまじと見て、私以外の女性にそれ言ったら、嫌味になりますからね、と指摘した。

食生活アドバイザーと対談する企画もあった。
壊滅的な食生活の一ノ瀬依子がおもしろおかしく取り上げられる。
日頃の食生活を明け透けに話す。スタジオは大爆笑。
私が首をかしげて黙ると、それにも爆笑。
それでもお肌が荒れたりとかないですよね、肌荒れるってよく分からなくて。爆笑。

全裸で夜の街を見渡す。不規則な光の羅列、つまらない。
口角に痛みが走る。痒みにも似ていた。薬を塗らなければ。
そう思いつつ、依子はささくれを触る。割れ目がある、感触で分かる。
爪をたてる。ぐっ、と力を込めて、押し込んでみる。
痛い、とは少し違う。しびれにも似たもの。
どんどん、どんどん、強くする。

三木君と抱き合い、彼の震えを感じた日。
痛みでその日を思い出せる。そんな気がする。
どんどん、どんどん、強くする。
人を人として見たくない自分を罰するように。


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