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【短編】カラカラ乾き、しっとり濡らす夜中の3時

新人類が天上から下りてくる妄想をしながら、私が歩いているアスファルトの道路がひたすら続いていくことに諦念が湧く。世の中をいい方向に変えてくれるものはいつも上から降ってきて、私を蔑み嘲笑い壊すものは、大抵下からやってくる。
今日だって私がエレベーターで下に降りようとして、乗り込むタイミングで下から上がってきた他者の社員と正面衝突しそうになり、舌打ちをされた。私を不幸にするものは大抵下からくるのだ。
私はミネラルウォーターを買いに1階まで降りなければならなかったのだ。


謙介が覆いかぶさってくる。汗で濡れた謙介の体は、男にしては細すぎるが、女にしてはゴツゴツしすぎていた。脂肪分を吸収する機構がこいつの体にはないんじゃないかと疑う。
謙介の乱れた横髪に遮られ、うすぼんやりと灯った青い照明が見えた。MFSが最近出したシングルのジャケットを思い出して、私は先ほど接続した無線スピーカーからMFSの曲を流す。普段聴かないため、わざわざフリック入力で検索する必要があった。
「なに、この曲」
息の混ざった声で謙介が言った。煙草の臭いは汗に混じっていつの間にか消えていた。イントロまでは良い感じだったのに、バースが始まって事後にしては興醒めな時間が始まった。
「マザファキサーヴェージ」
「MFS?こんな声だっけ」
「わかんないの?」
「えぇ…」
謙介が少し考え込みながら仰向けに転がり、少し時間が経って、
「あ、ほんとだ。分かるまで時間かかった」
「結構特徴ある声じゃない?」
「アーティスト名見て音楽選んでるから、曲単体で独立されると分かんなくなるんだよ」
私には謙介の発言が、とてつもなく新しく若いものに思えた。そんな感覚を持って平気でいられる人間がこの世に溢れているのだと考えると、正直不気味だった。
「こんどPOPYOURS行くんだよ、予習しといて」
「1日目にくるの?」
「チェックしてないの?」
「いや、出てくる人分かんないほうがワクワクするかなって」
私は体を起こして、何も着ないままベッドの傍らにあるソファに座った。
「とにかく揺れないし頭振らない男が横にいるの嫌だからね私」
「そこは心配しなくていいじゃん。音があれば大丈夫よ、あと酒」
テーブルの上にあるチューハイの缶が甘いものばかり。ひとつひとつを目で追い、そのうえで謙介に再び目を向けた。華奢な体でうつ伏せになって、枕に顔をうずめながらスマートフォンを見ている。じっと見ていると彼はこちらを見ないまま、音楽変えてよーと言った。私はLEXを流した。違う違う。ぼくりりを流した。いいね。
私は彼が好きではない。彼と恋愛をしたいと思わない。
背を向け、シャワールームへ向かった。


私の会社は改装で2フロア構造になり、下の階には営業部の人間が押し込められることとなった。
1日に何度もこのフロアまで人間が上がってきて、やれ経費の申請がどうのくの、打刻機がダメだの、備品があーだこーだ言ってくる。せっかく社内チャットがあるのに、なんでわざわざ私のところまで来るのだろう。
「それは共花さんが可愛いからじゃないですか」
1年遅く入ってきた同僚はそんなことを言う。
「いや、ありえなくない?何のために社内チャット導入してると思ってるの。仕事ついでにナンパとか笑えないんだけど」
「誰も笑ってなんかいないですよ、来る男たちも心から笑ってなんかないです。みんな必死ですよ」
「女の子ゲットするのに必死?」
「見下されないために必死なんです」
答えが残酷過ぎて、いつもの経費処理画面すらまともに認識できなくなる。
「まぁでも相手されるだけいいじゃないですか」
「沙理さん彼氏いるって言ってたじゃん」
「え、別れましたよ」
「なんでよ」
「彼氏、隠れゲイだったんですよ」
私は何も言えなくなる。ふぅんだか、はぁだか判別できない音を鼻から漏らして、逃げるように正面のスクリーンに目を向けた。
「この前、話しましたけどね、これ」
そう言われても、私は相槌にすらなっていない音を絶妙に聞こえづらい音量で発し続け、ついには一言もしゃべらずお昼休憩まで漕ぎつけた。
「お昼行ってきます」
「行ってらっしゃい」
沙理の声のトーンは一定で、先ほどまでの話は消えてしまったように思えた。謝罪しつつ、隠れゲイだった、という沙理の元カレについて掘り下げたい欲求に駆られている私。全く気にしていなさそうな沙理を前にして、自身が底なしに恥ずかしい存在に思えた。
沙理はパソコンから目を離して、背もたれをぎぃと鳴らしながらこちらを向き、行かないんですか?
「あ、いや」
「さっきのこと、別に怒ってないですよ」
そうだよね、と苦笑いした。謝ることは結局しなかった。
謝って楽になることを、彼女は心の底で許さずいる。
そうに違いないと思う。
沙理の目線は私のずっと下にあり、脚長いんだよなぁこの子とどうでもいいことを思った。


退勤し、スマートフォンを見るとインスタへの通知が6件、LINEは50件ほどたまっていた。私はインスタだけ開き、メッセージのやり取りを全部返して、LINEは見ないまま鞄にしまった。

空は曇天で、舐達麻が歌うには絶好の天気だと思った。ヒップホップを聴く女子が周りにいないせいで、私はAwichやちゃんみなが好きだと無理矢理言わざるを得ない。Awichが嫌いなわけではないけれど、あそこまで強くあろうとする女性を見ると家系ラーメンを無茶して食べた時みたいな負荷が自分にかかる。舐達麻が適度に私へ脱力感を与えてくれるし、5lack、LIBROまで聴き通して、やっと私らしく家に帰ることができる。私らしくいられる時、というのは、溶けるように私が世の中からいなくなっていく時だ。こんな瞬間が好きなんだなぁと、帰りの電車に揺られていたら、謙介に会いたい気持ちがふわっと煙幕のように広がって、LINEの通知がそれを濁していった。

意を決して、というタイミングがやってこず、私はいちどもスマートフォンを取り出さないまま最寄りの駅へ着いた。
直接帰ることに寂しさを覚えて、駅前の小さな居酒屋に入った。いらっしゃいやせぇ、ひとり、あいよ、カウンター席どうぞぅ。カウンターはぽつぽつ空いていて、私は大学生らしき2人組の横に座った。
「麦ソーダ割りで、あとチーズ肉巻きとごぼうサラダください」
あいよ、と静かに呟いた髭面の店主が、黄色いおしぼりを渡してくる。受け取って手を拭きつつ、壁に貼ってある白版を眺めた。
『白子ポン酢 おすすめです!』
白子をしばらく食べていない。どろっとしていたか、さっぱりしていたか、もしくはその両方だったか。チーズがどろっと溶けた肉巻きを食べたら、どうせさっぱりポン酢が欲しくなるだろう。私の口内は湿度の高い洞窟のように、唾液をポタポタ垂らす空洞と化している。

ドリンクと肉巻き、サラダが揃ったところで白子を追加オーダーし、ゆっくりとひとり飲みを進める。

横では大学生が、いけたってこの前の子、いやでもゴスペル研究会でビッチよ、いいの?罰当たりな子だな、それがいいな、きもいって、明日言いふらすぞ、言えばいいよ、もうなんかそういうの耐えられるようになった、美樹ちゃんにも言うわ、おいだるいって、美樹ちゃんとその周辺に言うからな、それはやめて、やめてほしいか、やめろよホント仕方ないってあいつら、あいつらじゃねぇよ喋ったことねぇだろ美樹ちゃん以外、だから何だよ、お前上から目線でいすぎなんだよそろそろ思い知れ、俺のどこが上から目線だ。
究極的に言えば、人間が酒飲みの場で他人の話を肴に談笑すること自体、人を見下した態度なのであるが、そんなことを言い出したら飲食業界は大打撃を受けてしまうため誰も言わずにいる。革命勢力を育てかねないからと、どっかの国で屋台の密集地域が規制され始めていると聞いた。少し酩酊状態だからこそ、その政策はどこかまともかもしれないと思い始める。
いつだって革命の種はアルコールから生まれているだろうから。

数杯飲んだところで、隣の大学生たちは冗談を言い合いつつも仲違いをしたらしく、片方が帰っていった。私の隣にいる青いポロシャツの少年だけ取り残され、彼は店主に烏龍ハイを頼んでいた。出てきた烏龍ハイに口づけた彼は、少し顔をしかめた。濃かったのかもしれない。私は笑って、濃かったの?と聞いてみた。聞いた後で、あぁまたやってしまったという後悔が湧き、そこからくる快感。お笑い芸人の話になった。

「俺、トータルテンボスが好きです、あとミキも」
「独特」
「そうですかね」
「どういう所が好きなの?」
「なんか下ネタとか、単純に声がでかいとか、力業で笑わせてくる感じが」
「へぇ、力業なんだ彼らって」
「いや、分かんないっすけどね、力業ってそもそもなんだよって話だし」
「君が言ったんでしょ」

私は初めてあったこの少年を「君」と呼んでいることに底知れない興奮を覚えた。「君」が決して不敬を表す漢字ではないこと、しかし軽いノリで年下の男性に使っていることのアンバランスさが、若干危険な香りを漂わせていて文学的だった。文学的、とか思ってしまうのも私が既にホッピーをだいぶ飲んでいるからだ。

お互いだいぶ飲んで、彼は上から私の頭を撫でようとした。急にとてつもない嫌悪感を覚えて、苦笑いしながらその手を払った。そして彼の腰のあたりをトントン叩いて、「出る?」と聞いた。


部屋で起きた私の喉元はカラカラに乾いていて、水を欲してナイトテーブルに手を放り出した。カランカランと音をたてて缶が転がり落ちたようだ。それに構わず私はペットボトルの感触を探し、それを握りしめて、重すぎる上体を起こした。

あぁ、夜中の3時だ。最近、この時間に起きることが多い。
おばけが出る時間は夜中の2時から3時だって、小さい頃読んだ絵本に書いてあった。この時間に出てくるおばけがいるなら、外部から来てほしかった。私の肉体の外部から。

だが大抵、おばけは私の腹の下の方から爪を突き立てて這い上がってくる。喉を切り刻みながら激しい痛みと共に、私はそれを便器に吐き出すのだ。トイレに気付いたら移動していた。ついでに用も足そうとした。肛門に何かが詰まる感覚だけ覚え、一向にそこから進展がない私の下半身に悪態をつき、ぶつぶつ独り言を言いながらスマートフォンを開いた。






『呪ってやる』
『人の幸せ壊してたのしい?なんでそんなことできるの』
『いいよわかんないだろうから』
『絶対許さないし、許す奴なんていない、あんたのことなんか』
『謙介が何を言ったってあんたを許さないし、何も言わなくたって許さない、殺す』
『kろしてやるあら』
『ころしてやるから』




フリック入力って打ち間違いが最も多発する入力方法だと思う。
だけど私たちはその入力方法を、最も馴染み深い方法として多用している。
きっと誰にだって馴染んだ方法がある。この世界で命を持ったら、それをどう擦り減らしていくか、どう磨いていくか。生まれた時に覚えた方法しか知らなくて、それをずっと経路依存で続けていく。

トイレから出て、念のためトイレットペーパーで拭いてベッドに戻る。

私はトーク一覧の画面に戻り、謙介からLINEが1つも来ていないことに気付いて、謙介は死んだんじゃないかと思った。あの女に殺されたんじゃないかと思った。

見知らぬ男性のアカウントからLINEが来ていて、開いたら絵文字がひとつだけ送られてきていた。
おそらく、居酒屋で話した少年だろうと思った。
絵文字は口もとに人差し指を当てる「静かに」ポーズの黄色い円人間だった。
私は謙介と初めて話した日の夜を、
連絡先を交換した夜中の3時を思い出した。

前職の職場で、謙介との関係が一瞬で広まり、それでも素知らぬ顔で3年勤続した私は、転職が決まった日にひとり風呂場で大泣きした。

私は「静かに」ポーズの絵文字を見て、涙を流す。
上から頬をつたって落ちてくる涙は口に入った。
塩辛い味はミネラルウォーターと唾液に混ざって、口内全体へ膜を張るかのように広がる。
乾燥した夜に、更に水分を奪った酒。
そこに潤いをもたらすには、あまりに小さな湖が私の中にはあった。



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