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ブギーマンと潮風【短編】

 潮風が臭い。この風が運んでくる臭気は、そこまで心地いいものではない。

 それは単純に、俺がこの場所に住み続け、風に対していちいち文句を言うくらいには暇だからかもしれない。しかし俺は、それだけではない、とどこかで思っている。

「じゃ、行ってきまーす」

 そう言って3階建ての一戸建てを出たのが数分前。母からは「行ってらっしゃい」と言われたきりである。大学はどうしたのとか、ダラダラしてばっかじゃないのとか言ってくることはなくなった。どちらに対しても、文句は出てこない状況だ。文句がないほうが、人から何も言われないほうが、当然人は過ごしやすい。


 大学は少し離れた場所にある地方の国公立で、流行病の影響からリモート授業に切り替えている。パソコン越しに講義を聞くことになるが、俺が取っている講義は出席点がなく、レポートやテストで成績のすべてがジャッジされる類のものだ。

 出席点がない分、テストは筆記が多くて予習が難しい。レポートもそれなりの分量を求められる。だが勉強は嫌いではないし、そこそこの成績でパスできるという見込みがあった。

 そして休日もダラダラしているわけではない。俺は奇妙な「バイト」を見つけて、そこで金をもらって帰ってくる。だから、親から文句の出ようもない。


 いつもの通り、海岸線に沿った道路を歩いていき、巨大な建物が見えてくる。この町が誇るリゾートホテルだ。バイト先はここ。

「ホテル かのい」

 銀色の銘板を横目に見つつ、停まっているタクシーの横を通り過ぎてエントランスに入る。平日ではあるが、ロビーにはそれなりに客がおり、フロントで受付のスタッフが忙しそうに対応をしている。

 近くに海があること、温泉がそれなりに出ること、不味くはない海鮮料理が食えること、その3点だけで成り立っているようなホテルなのに、ここまで客が集まるものか。このホテルができてから、ひたすら不思議に思っている。


「あぁ、三木くん。お疲れ様」

 俺が「STAFF ONLY」のドアを開けて入ると、気品のよさそうな女性が声をかけてくる。話したことがあったか。名前を呼ばれたということは、いつか話したのかもしれないけど。

「お疲れ様です。社長さんは」

「いるよ、奥。週に何日も、お疲れ様ね」

「いや、全然大したことしてませんから」

 そう言って、俺は目の前で手をひらひら、曖昧に揺らした。

 部屋を進むとエクセルの画面が表示された事務用PCや、棚に詰められたいくつものファイルが目に入る。

 スタッフはフロント対応で全員出払っているのだろうか。先ほどの女性以外、部屋には誰もいなかった。

 奥にあるドアをノックし、「どうぞ」という声が聞こえるのと同時に部屋に入る。

「あぁ三木くん」

 部屋の中に入ると、横幅の広い眼鏡の男性が笑って手をあげた。

「こんにちは」

「すまんね、毎度毎度」

「いえ、むしろこんなことでお金もらってしまって」

 俺はリュックサックを部屋の端にあるパイプ椅子に置く。

「こんなことだなんて、最近の依子は落ち着いているよ。三木くんのおかげでね」

「依子さんは今日も屋上に?」

「あぁ、そう。三木くんがそこを指定してくれたから、依子もそこが安心するんだろう」

「それならいいんですけどね」

 俺はリュックサックを開け、中からA4のポケットファイルとルーズリーフ、ペンケース、バインダーを取り出す。

 社長の方を見ると、俺が取り出したルーズリーフを見ていた。

「記録をとるなんて発想はなかったけど、なんだか安心するよ」

「俺の感想になってしまいますけどね、書くこと」

「いやいや、すごく助かってるんだ。娘の考えてることが少しづつ理解できている気がするし」

 理解、という言葉にチクリとした違和感を感じるが、それを言葉には出さない。

 俺は笑顔で「よかったです」と言い、道具一式をわきに抱えて「では」と頭を下げた。


 俺は更衣室をスルーして、屋上のプールサイドへと歩みを進めた。

 客のほとんどは海か温泉に行く。このホテルの中でひとつミスがあったとすれば、この中途半端なプールを屋上にこさえたことだ。

 プールは温水で、一辺10メートルの正方形。奥にはジャグジーがあり、それは5メートル四方。はっきり言って、狭い。

 奥にあるジャグジーに黒いワンショルダーの水着を着た女性がいた。

 依子さんだ。目を瞑り、足だけ温水につけていた。顔は下に向いている。強気な女性が着用しそうな水着なのに、俯いているせいで地味な水着に見える。

 最初の頃、具合が悪いのかと思って駆け寄ったこともあるが、今では何も気にしない。彼女はいつもこうなのだ。

 俺は近寄って行って「来ましたよ」と声をかけた。

 依子さんは顔を上げる。

「お医者さんはそんなラフな格好なの」

 依子さんの言葉を聞いて、俺は自分の服装を見る。白黒が波打つ柄シャツに、生地の薄いゆったりとしたパンツ。俺はシャツについていた埃を指でつまみつつ、

「医者じゃないから、ラフでもいいんです」

「お医者さんよ。いっつも私と話ながら、その紙に書き物をしてる」

「これは日記ですよ。依子さんと話す内容を覚えておきたいんです」

 そう言うと、依子さんは笑った。笑うと急に大人っぽくなる。笑い声は漏れ出る程度で、口を手の甲で抑える。

「日記なんて、紙で書く人がいるの、こんな田舎で」

「田舎の方がデジタルより紙媒体なイメージですけどね」

 俺はそう言うと、いくつか並んだサマーベッドのひとつに腰掛けた。同じタイミングで依子さんは、ドボッという音をたててプールに入る。

「逆よ。田舎は価値観が画一的だから、1度便利なものが入ってくると、それ以外のものに目がいかなくなる。都内の方がそれに疑問をもって、紙の日記とかに回帰するチャンスは多くなるわ」

 俺はバインダーにルーズリーフを挟み、黒いボールペンで彼女の発言を書き留める。何のためにかは分からない。これを読んだ社長(依子さんの父)が何を思うのかも。


 このバイトを始めたのは、4か月前だ。

 マグロの遠洋漁業で莫大な収入を持ち帰ってくる父は、休みの日に俺を連れ出し、「ホテル かのい」の社長に引きあわせた。この町の縁故の中に俺を取り込もうとしたのだろう。

 退屈な話が続いた。先代の話や近辺での世間話、漁獲量や観光客数の話など、俺がいてもいなくても関係ない内容だ。

 父は俺に、将来のことや就職先のこと等、口うるさく言わない。しかし、こういう「大人の話」を傍で聞かせることによって、俺が何か将来に対して必死になるような動機を植え付けようとしていたのだと、今では思う。

 生きるのは大変だ、だけどいいもんだ、男は稼いで、いい嫁さんのもとに帰って、子供を育てて次世代へ、みたいなテンプレートに、素直に乗ってほしい。父の声にならない祈りのようなものが、酒と料理と雑談を媒介として伝わってくるような気がした。

 俺は「うんざり」と声に出しそうなほど不愉快な表情を作っていた。そんな俺を見て、社長は少し気を遣ってくれたのだと思う。

「三木くん、実はね」

 社長は依子さんの話をした。

 依子さんはこの町で高校を卒業し、東京の名門私大に進んだ。社長としてはこの町に留まって、いい男性を見つけて落ち着いてほしいと思っていたそうだが、彼女の壮絶な反抗期を目にしていたことから、少しは自由にやらせてあげよう、という気持ちが芽生えたらしい。

 そして依子さんは東京に行った。しかし、3年経ったところで、退学して帰ってきた。手続きもろくにせず、予告なく帰ってきたため、社長や奥様は「何事だ」と焦ったそうだ。

 依子さんは帰ってきてから、退学の理由どころか、日頃の会話すらまともにしなくなり、部屋に籠るようになった。両親には見向きもせず、触れようものなら叫び散らしながら振り払ってきた。

 ホテルの従業員間では「東京でおかしくなった」、「ストレスが多い街だから」、「でも元から困った子だったんでしょ」、「悪い男にでも引っかかったんじゃないか」と噂がたちはじめた。

「誰にも心を開かないというか、私としても依子をせめる気はないんだ。退学のことも事情があるのだろうし。ただ話をしたいだけなんだが」

 俺は依子さんのことを、その時何も知らなかった。けれど、「せめる気はない」という社長の発言が、妙にむずむずと気持ち悪かった。

「三木くんは今、大学2年生だろう?歳もそこまで離れていないし、我々よりも話しやすいかもしれない。いちど、会ってみてくれないかな」


「依子さん、肌艶がよくなりましたよね」

 最初に会った時のことを思い出しながら言った。

「もともと肌質はいい」

「いやでも、元気になってきてるなって思って」

 そう言うと、依子さんはプールからあがり、俺の隣のサマーベッドに寝転がった。太陽の日差しが、身体に張り付いた水滴をキラキラと光らせている。

「元気だよ、私は。ひとりでいられたら元気なの」

 俺は彼女の言葉を書き留めつつ、黙って次の言葉を待った。

「皆、そうだと思ってた。ひとりでいられたら、皆元気なままだし、快適だし、気持ちがいいって思うものでしょ。私は部屋にひとりでいた時も、元気だったんだよ」

 最初に会った時、依子さんが部屋で髪の毛をボサボサに乱しながら、俺に近寄ってきた時のことを思い出した。

「大人しくひとりで眠っていたかった。なのに、パパもママも、意味わかんない人たちも土足で私の中に入ってくる。少しだったらいいよ。少しならまだ許してあげるというか。でもさ、ブギーマンは何度も会えば、私をさらっていこうとする」

 ブギーマン、という言葉の唐突さに俺のペンは止まる。

「ブギーマンですか」

「ブギーマンだよ、私だけで元気に生活して、眠っているのに、他人がブギーマンになって私をどこか別の所へ連れて行こうとする」

 ブギーマン、という言葉だけをルーズリーフに記す。俺はそれをじっと見つめた。どこか胸をざわつかせる言葉だった。

「さては知らないね」

「知りません」

「無学な少年に私が知識を恵んであげる」

 そう言うと、依子さんは立ち上がる。そして俺に近寄って、見下ろす。珍しい事だ。依子さんは人に近付かれるのが嫌いだし、俺にもめったに近寄ってこない。

 依子さんは俺を見つめ、納得のいかなそうな顔をした後に、じんわりと笑顔になっていった。

「三木くんってさ、人じゃないんじゃない?」

「大学生です」

 俺は答える。依子さんはその返答が気に入ったようだ。満足そうというか、勝ち誇ったような顔をして、変わらず俺を見下ろしてくる。そして彼女は語り始めた。

「ブギーマンは英語圏を中心に広く言い伝えられている、不定形の化け物の総称。地方や家庭によって全然伝えられ方が違うけど、子供とかに聞かせる怖い話では定番」

「はぁ、お化けってことですか」

「まぁそうなのかな。私の場合は違うけど」

「依子さんの場合?」

「そう、私にとってのブギーマンはね、私の中にある私を攫っていくの。ここも、東京も、どこでだって同じ。ブギーマンは私に何回も近寄ってくる他人から現れて、私が保っていた元気で健全で快適な生活を奪っていこうとする」

 なぜ「ブギーマン」と表すのかは置いておくとする。

 しかし俺は、彼女の言うそれがなんとなく分かる。俺は父や社長に対して抱いた、食事の席での苛立ちを思い出していた。

 潮風が吹いた。俺は塩臭いと感じつつ、目の前の依子さんから海の方へ視線を移した。青く、空を反射する海が、波という白いノイズを挟みながら蠢いている。

 海は昔から嫌いだった。その海から恵みを受けて、俺の学生生活も、家庭も維持されていることが分かっていて、だからこそ嫌だった。海というものに対して、自由や希望、美しさなどを見て取る文学作品。俺はそれの、どれもが嫌いだった。

 俺は立ち上がり、記録用の道具を全て傍に置いた。依子さんと体が擦れる。常識はずれな近さだ。

「すみません」

 少し肌が触れたことへの謝罪だった。

「やっぱ三木くん、人間じゃないよ」

 意図のつかめない発言だった。俺は彼女を無視して、海の方向へ少し歩みを進めた。

「海が好き?」

 依子さんが聞く。

「好きじゃないですよ、嫌いです」

「私も嫌いだよ、だからプールで良かった。なんでプールにしてくれたの?」

「いや、ここのプール、お客さん来ないじゃないですか」

「ね、来ない」

「つまらないからだと思うんですけどね」

「つまらないけど、快適だよ。人がここをつまらないと思ってくれるおかげで、さらに快適」

 依子さんは俺の横に来て、同じように海を眺めていた。俺は依子さんの方を見た。体を見た。俺と同じ、172センチ。

 毎度俺が来ると、彼女は背筋を伸ばし、都内にうじゃうじゃいる読者モデルを蹴散らせるほど、麗しい空気を纏う。


 俺は下の階でチューハイとつまみを買ってきた。

 依子さんは酒が好きだった。東京にいた時は、ひとりで飲み歩く毎日だったという。

「ひとりで飲みたいのに、結局ひとりにはなれなかったりするけどね」

 少し陽は傾き、空はオレンジ色に染まり始めている。依子さんはすでに2缶あけていた。

「今は俺もいて、2人ですよ」

「だから、人間じゃない。人間だと思えないもん、三木くん。だから好きだよ。一緒にお酒も飲める」

 彼女と今日交わされた会話の中で、時折でる、俺が人外だというコメント。それが挟まるたびに、彼女が人間らしい笑顔を取り戻していく。そんな風に見えた。

「ブギーマンは他人から出るんですよね」

「そうだよ」

「じゃあ俺からもそれが出てくるんじゃないんですか」

 彼女は首を傾げた。

「君から?」

「俺だって、人間ですよ」

 俺の言葉に、依子さんは少し怯んだ。そんなに強く言ったわけではないのだが、彼女は唇をきゅっと強く結び、俺の方をじっと見つめた。

 そして、しばしの沈黙の末、

「じゃあ試してみる?」

と言った。表情に緊張感がある。

 試す?

 俺が若干思案する間に、依子さんは俺に近寄ってきて抱きついた。人を拒絶し続けた女性とは思えないほど、その抱擁は自然だった。

 俺の中で、父のことも、社長のことも、記録も、この町のことも、全てが溶けて黒く濁っていった。

 時間は過ぎる。20秒くらいは無言のまま、抱かれていた気がする。俺の心の中で、ざわり、と何かが音をたてる。

 潮風が吹く。変わらず臭い。周囲の暗さが潮風に色を付け、黒いぬめりが肌を撫でていくような気がした。黒、という色が連想された。俺は依子さんが着ていた水着が黒いことを思い出した。

 ざわり。湿り、ざらついた、黒い何かが、俺の体中を這い、依子さんの体にも伝っていくような。


 俺は依子さんに触れていた。首に巻き付いた白い右腕に、俺は触れていた。

 触れただけだったのか、握ったのか、撫でたのか、その線引きははっきりできなかった。

 ただ、「触れた」瞬間に、依子さんはさらに強く俺を抱きしめてきた。そして体を震わせ始めた。

「怖い」

 彼女はそう言った。俺はたまらず、腕を彼女の背中に回す。俺たちは抱き合う形となった。そして息を合せたように、2人で立ち上がる。

 抱き合いながら、依子さんは海に背を向ける。俺は依子さんの方に顎をのせながら、海を見ることとなった。

 おかしい。まだ夕方のはずだ。

 しかし、海の方面は暗闇。黒く、夜の闇と一体化しかけている。波なのか、海面の揺らめきがぐにょぐにょして気持ち悪かった。もはや海なのかも分からない。

 依子さんは震えている。俺にもそれが伝わり、いつの間にか俺の体も震え始める。俺は2人で何に怯えいているのか分からなかった。

「...怖いって?」

 俺は依子さんに聞いた。彼女はそれに対する答えなのか、独り言なのか、判別しづらい返答をした。

「言ったでしょ...ブギーマン...人と人が言葉を交わし、近付きすぎれば生まれてしまう化け物」

 黒く染まった「海」が波打つ。そしてそれは、今にも形を成して、俺たちの方へ迫ってくる気がした。

 潮風が吹いた。ぬめりけを纏い、俺たちの肌を撫でる。気色の悪い風。


 依子さんに会えなくなったのは、あのどす黒い「海」を見た次の日からだ。

 いつも通りにプールへ行くと、依子さんはそこにいなかった。

 社長も驚いた様子で、従業員の何人かにも声をかけ、ホテル中を探し回った。

 しかし彼女は見つからず終いだった。

 依子さんの話を聞き、記録を提出するという奇妙なバイトは続行不可能となる。

 しかし社長は「申し訳ない」と言って、ホテル内のレストランでホールスタッフとして働かないかと提案してきた。

 俺はホールスタッフとして変わらずそのホテルへ通い、時折屋上のプールを見に行った。依子さんは、ずっといなかった。

 社長が言うには、荷物も持たず、どこかへ消えてしまったらしい。

 俺は依子さんと会うことによって過ごしていた時間を、ホールスタッフとして忙殺されることで消化していった。

 ただ、少し手が空いたり、暇ができたりすると、依子さんと抱き合いながら眺めた、どす黒い「海」を思い出す。そして何故か、彼女とプールサイドで抱き合ったことを、俺は後悔する。

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