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【中編】ファッキン・グラジュエイト

今日が卒業式である、と気づくまで数分かかった。そうだ、卒業式だ。いつもの通り天井はぼやけて見えるけど、今だんだんクリアになって、頬のあたりにスマホの革製ケースの感触を覚え、気だるい毎朝と状況は変わらないのだけれど。

スマホのバイブ機能が私の頬を揺らす。右手の指でスリープ状態を解除し、充電ケーブルを抜いて、眼前至近距離に画面を表示させる。

「依子おはよ!」
「南口集合ね」

私は巧みなフリック入力で「おはよ、おっけい」と返信した。寝起きだからと言って、無愛想になりすぎないよう配慮し、ちいかわのスタンプを追加で送る。
同じゼミのユウカからのLINEだった。大学の最寄りの駅、南口で集合する約束をした。待ち合わせ時間まではあと2時間。出発してから20分で駅に着けることを考えると、余裕をもって起きた方だと思える。

だが、さすが朝。大抵の人間にとって共通の敵である、この「朝」という時間帯が体を重くする。2度寝の欲求は、1限に行くときも、卒業の日も変わらずあるのだ。それが今日いちばん最初の発見だった。

なんとか体を起こし、洗面台へ向かおうと、カーペットの上に足をおろす。部屋の中を見回す。
大体は段ボールに詰め込まれていて、このベッドも明日業者が回収に来る。
数ある段ボールの中、ひとつ真っ白な長方形の収納ケースが横たわっていた。私はそれを一瞥したのみで、重い腰をあげる。

今日はパンツスーツで卒業式に出る。


ユウカ、チヒロ、カズキ、ナオキというゼミのメンバーで、クソでかいホールの座席に座り、おじいちゃん学長の話を聞く。

これから歩んでいく道が多難であること、それでも何かを信じることを決して辞めてはいけないこと、この大学が既存の名門を押し退ける勢いで快進撃を続けてきたこと、家の窓から見える木々とそこにとまる小鳥は毎日変わらず美しいこと。

いい話な気もするし、ありきたりな気もするし、腹立たしい気もする。
素直にこの学長の話に涙することができたら、この後壇上に上がっていく何人かの模範学生になれたのだろうか。
そんなことを適当に思っていると、ゼミで一緒のメガネくんが壇上に上がり、だいぶ攻めた演説を始めた。

チヒロが笑う。
「あんな真剣に話してるの、初めて見た」
カズキは「たしかに」と言いつつ、僅かに笑う。
ナオトが、
「あいつカンペ持たずに行ったんだってよ、さすがだよな」
と言って、静かに、だが大げさにウケていた。

メガネくんはアキウという名前だった。
「明生」という漢字で、最初はなんと読むか分からず、チヒロが「アキオじゃない?」と言って、いかにも名推理って感じの空気になったのだが、「オじゃなくてウなんだよねぇ」と頭を掻いて困ったようにアキウは笑った。
アキウとは1度だけ2人で飲みに行って、キスだけしたことを覚えている。むこうは忘れている。

性的な接触があった男子を、パブリックな場所で遠くから眺めているというのは、不可思議な感覚だった。
胸中には若干の慢心というか、下世話な誇りみたいなものがあった。そのうえで、今現在彼と私の間に何の色香も生じないことを考えると、滑稽さと虚しさが混ざった、僅かなざわつきが胸中に生まれる。

アキウは既に別の女性と付き合っている。その女性は既に社会へ出ており、生保の会社でOLをしているらしい。
まだ社会というものに具体的なイメージを持てていない。しかし、生保レディ=バリキャリで肉食系、という謎の偏見が私の中にはふわっとある。

アキウは元々成績も優秀で、ゼミでも「頭いいなぁ」と思わせる発表を繰り返していたし、教授のお気に入りでもあった。
しかし今、壇上で雄弁に語る彼を形成したのは、その生保レディなんじゃないのかと、なぜか思う。
理由は分からないが、事実としてそうなのだと、私は頭の中で決めつけてしまった。
優秀学生アキウを成立させている、年上社会人女という構図。
私にはそれが、とてつもなくグロいものに思えた。


「帰り、サイゼ寄ろうよ」
「いつも行ってるところ?」
「そうそう、パルコの」
「いいね」
「朝食ってないから、超食える気がする」

そんな彼らの誘いを受けてサイゼリヤに行き、居酒屋に行こうという話になったところで緩やかに断った。
寂しいぃ、おい依子マジかよぉという声に対して、「はいはい」「ごめんねぇ」「大丈夫だって、またすぐ会えるって」とリプライ感覚で適当な言葉を放ち、サイゼリヤを出て、エレベーターに乗った。

エレベーターでLINEを開くと、案の定数件のメッセージが入っている。
「こっち、式自体は終わった」
「いつものとこいるよ」
私は「すぐ行く」と入力して、消し、「はーい」と再入力して返信した。

エレベーターが下っていく。ウィーッと静かになる音は、エレベーターについているワイヤーを巻き取ったりする音なんだろうか。昔怪談レストランで、エレベーターが突然落ちる話を読んだことを思い出す。人が入ろうとした瞬間、ドアが開いたままエレベーターが降り始め、乗ろうとした人が首を挟まれたというニュースもあり、私はエレベーターの中をキョロキョロ見回しながら、背中に少しだけ冷や汗をかいた。今、ケーブルが突然切れて落下、即死という妄想が頭をよぎる。首は挟まれない。体が、重力と床に挟まれて即死?痛い、だろうか。

今日も含め、これまで5回の卒業をしてきた。幼稚園、小学校、中学校、高校、そして弊大学。社会人になったら転職はあるだろうが、「社会人卒業」という瞬間は暫く訪れない。
定年後も再雇用制度があったり、そもそも定年制を採用していない会社があったりという話を聞く。
前時代的な「静かな老後」なんて失われかけている。

このままエレベーターが落下したら、ある意味私は、全てから「卒業」だ。
それが望ましい、と考えた瞬間もあった。
現代の若者が誰しも抱える、「希死念慮」という言葉を使うのももったいないほど、朧げな死への欲求。

私もそのひとりだったが、現代のJ-POPがそれを「エモ」みたいな言葉に落とし込んで売り物にしていたりとか、ルポや取材動画などで限界に近い生活水準で日々を歩んでいる人を見たりして、自分みたいな位置の人間が「死にたい」とか言っても仕方ないと思うようになったし、そう思うことが馬鹿馬鹿しくなった。

それでも、ここでエレベーターが落下して、不幸にも私が死んでしまったら、それは周りにも「仕方のない事実」として伝わっていき、社会が無理矢理私の人生に線引きをしてくれることになる。

その方がいい、とかではない。
ただ、そうなんだろうなぁってだけ。


居酒屋の小さな扉を開け、屈んで入る。
辺りを見回す。
すぐ横の個室席にトウジがいた。
私はコートを脱ぎながら、「お疲れ」と笑う。

「卒業おめでとう」
「そっちもね」
「卒業だからって何軒もはしごする意味が分かんねぇわ、都内就職の奴多いし、いつでも会えるのに」
「誘われた?」
「誘われた、依子は?」
「誘われた」

トウジは肩をすくめると、卓上スタンドを手に取り、QRコードを私の方に向けた。私はポケットからスマートフォンを取り出し、それをスキャンする。
画面上部にユウカからのメッセージ通知が表示されるが、スワイプして消した。

野菜の肉巻きやうずらの塩漬け、りゅうきゅう漬け、かつおのたたきが運ばれてくる中、私とトウジは白ワインで乾杯した。

それから卒業間近にあったことをお互いに話した。

トウジは大学1年生の頃にテニサーに入って、そこで知り合った先輩とドッチボールサークルを新たに立ち上げ、それと並行して数ヶ月単位の企業インターンへ参加し、最終的にはインターン先と全く縁のない大手のIT企業に営業職として内定をもらった。
既に会社の同期になるであろう人と交流があるらしく、飲みに行く頻度は大学2年あたりと変わっていない。先週もクソほど飲まされたと愚痴るトウジ。

私はそんなトウジを見て、何も羨ましいと思わない。キャリアについても想定年収についても、そこまで魅力を感じない。モルディブ連れてってやるよと、私の誕生日を祝うホテルのディナータイムで言われた時には、え素敵とか僅かに思ったけれど、夜が明けたらそんなに素敵かなとひとり首をかしげていた。

トウジは、何も将来の見通しに不安を感じていないし、不安を感じてもそれは自身の成長の糧になるとか何とか言って、努力と自尊心で乗り越えてしまうタイプの男性だ。
だから私にも、同じようなテンションの鼓舞をしてくる。
辛いこともたくさんあるけれど、それは次の成長に向けたバネになる。
彼は他人が負のスパイラルに陥っている時、あの手この手ですくいあげようとはしてくれず、1本太い紐を垂らしてくる。

そんな彼の姿に「頼もしい」と心酔することもせず、
かといって冷笑することもせず、過度な期待もせず、
無我夢中で意識高いところが可愛いと無理矢理括って、
安定的なパートナーとしてキープしている。

私は適度に自分の話もしつつ、トウジの話を頷きながら聞き、時折「バカじゃないの」と7割の爆笑をする。
不意に、先ほどのエレベーターでした妄想がよぎる。自分を全てから卒業させるであろう、痛くてヒヤッとする妄想が。
この妄想を、トウジに話してみようか。少し迷い、話すわけないと心にしまう。
トウジなら、エレベーター事故の発生率について調べて、心配なくねと言ってくるだろう。
それか、そんなこと気にし過ぎたらキリないよ、と苦笑いして酒を飲むだろう。
エレベーター事故と死と卒業を結び付けた、私の中での筋などには目もくれない。きっとそうだ。

私はしばらく適当に相槌をうっていたらしい。トウジが私の頬に手を添えて、「どうしたの、なんか悲しい?」と聞いてきた。
私は笑顔で「ううん、なんでもない」と言いながら、今私の中に生じている感情が「寂しい」というものではないかと疑った。


部屋に帰ると、存外酔っていることに気付いた。足がふらつき、鞄を丁寧に置く気力もなく、適当に床へ投げ捨てる。化粧も落とさぬまま、スーツ姿でベッドに倒れ込む。水を飲まなければ、しかし冷蔵庫に行くのも億劫だ。

トウジは泊まっていこうと言っていたが、私はベッドの回収があるからと断り、妥協点として3時間休憩だけ入ろうという話になり、ホテル内でもそれなりに飲んで、やって出た後に別れた。
しかしこの怠さでは、明日早く起きる自信がない。変に飲み過ぎてしまった。酒にのまれないことが唯一の自慢、だと思っていたが不覚だった。
なぜ、こんなに飲み過ぎてしまったのかが、ぼやけて思い出される。
何か、トウジに冷たいことを言った気がする。

私はしばらく横になり、天井をただ呆然と見つめ、煌々と光る電燈をうざがって、壁にかかったリモコンを手に取り、オレンジ色の安眠灯へ切りかえた。優しい光によって、眉間によっていた皺がゆるみ、頭痛もマシになる。

酔った頭は、これまでの大学での思い出をひとつひとつ振り返る、なんてことはなく、限られた過去のシーンだけを繰り返しリピートして再生した。

まず、アキウと飲んだ夜が思い出された。アキウがカウンターに座り、チーズのハム巻きを口に放り込みつつ、私の方を見る。そして「依子はひとりが好きなの?」と聞いてくる。あの時私はなんと返しただろうか。

そして次に思い出されたのは、母との記憶。実家に偶々帰った時、交わした会話。振袖で出なさいよ、いいよ、なんでよ晴れ舞台じゃない、舞台立たないし、そういうことじゃないけど、とにかくさ、一生に一度の日なんだから、一生に一度って何、私毎日が一生に一度だよ、なんでそんなひねくれるの普通のこと言ってるだけじゃない着付けだけでも行きましょ、何もう、ほら、だから空いてる日教えて、なんでよ、なにがよ。そして私は何かを諦めた気がする。クソ重い晴れ着で卒業式に出る、ということ以上に、クソ面倒な、大きな事実を受け入れて、諦めた気がする。

諦め。

そうだ、あの日だけじゃない。
私は何かを何度も諦めてきた気がする。

私は急に、酔いに酔って動けない自分を腹立たしく感じた。
進撃の巨人のBGMでも流したい気分だった。
Spotifyで再生するのも面倒で、頭の中で壮大な音楽を流す。
体を、起こす。頭が想像以上に重かった。体もあちこちにぐるぐる渦が巻いているようで気持ち悪い。うめき声も漏れた。
このままだと吐くかもしれない。

吐く。

そうだ、飲み過ぎたのだ。酒ではない。この数年間、飲み過ぎたのだ。
それを吐き出すなら、決まっている。

私は部屋の端にある、長方形の収納ケースに辿り着く。
そのまま、開く。オレンジ色の温い光に照らされて、品性のある紫色と銀色の模様が、私の視界の中でぼやける。
ケースの蓋を放り投げ、私はそれに顔を押し付けた。新品の布、としか表現できない臭いで、つまらなく感じた。
私は顔をあげる。

そして晴れ着を真正面に見据えながら、何の躊躇もなく嘔吐した。
げぇげぇ、うげ、げおぉぉ。
腹の中で、どこかの器官が絶えず収縮を繰り返す。
目を瞑る。まぶたの裏に、チカチカと様々な色が点滅して綺麗だった。

吐くもの全て吐いた。ゲロまみれの晴れ着は、見るに堪えない。そして、その酷い有様が、妙におかしくって、私は笑った。ひとり、声をあげて、だけど小さく、笑った。泣いてもいたかもしれない。

エレベーターが突然落ちる、大事故の妄想。
私はあの妄想の実現など、望んでいない。
だが、晴れ着にゲロを吐いて笑っている自分がいると気付いて、
落下したエレベーターの中で死ぬ私も、案外笑顔かもしれないと思った。
だからこそ、そんな妄想の実現は必要ない。むしろ私は人生を卒業せずとも、この卒業後の人生をきっと過ごしていけるはずだと確信した。
ゲロまみれの晴れ着を思い出しながらだったら、
トウジと結婚観などについて語るのも悪くないかもしれない。

意味わかんないけど、それでいい。
私はたしかに今日、卒業した。

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