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発達障害・大人ADHDの診断 その5~私が教員を退職したわけ~

私は2年前、37歳のときにADHD不注意優勢型の診断を受けました。大人の発達障害の診断について、よくご質問をいただきますので、私が診断を受けた経緯を何回かにわたってお伝えしたいと思います。今回は、復職した私が小学校教員を辞めることに決めた理由について書きました。



前回までの内容はこちら

◾️発達障害・大人ADHDの診断 その1~私ってADHD?~
◾️発達障害・大人ADHDの診断 その2~心療内科でのカウンセリング〜
◾️発達障害・大人ADHDの診断 その3~職場へのカミングアウトを決めたわけ~
◾️発達障害・大人ADHDの診断 その4~職場に障害を伝えるときに大切だと思うこと~


ここまでの私の状況 ↓

・ADHD傾向についての悩みを心療内科で相談
・1年間カウンセリングを受ける
・検査は受けていない
・「ADHD傾向があるようですね」「希望すれば投薬も受けられます」と医師、カウンセラーから話があるが受けず
・職場に自分の特性や状況について開示
・確定診断は受けていない

私は発達障害について書かれた書籍との出会いから、「診断は福祉サービスを受けるためのチケット」と考えるようになっていた。実生活においては、「自分にADHD傾向がある」と考えるだけで、情報も探しやすいし、病院で相談もできる。福祉サービスをける必要性は感じていなかったので、この段階で確定診断を受けようという気持ちはなかった。また、私の場合は職場が学校。学校にはグレーゾーンを含め、発達障害のお子さんももちろん多数通っている。そういう子どもたちと過ごしている先生方なので、「ADHD傾向がある」という説明だけでも、みなさんに私の特性についてイメージを持っていただけた部分があったのかなと思う。


失敗しても大丈夫って、自分に言ってあげる

私は育休から復職して1年間を教科担任・育児時短(私の場合は週3日の勤務を希望した)で勤務した。相変わらずうっかりを連発しながらも、「自分で自分を責めてる暇があったら工夫をする!周りに相談する!」「失敗しても大丈夫!」を唱えながら日々を送った。自分が「失敗しても大丈夫」「失敗はない、経験があるだけ」と、それまで子どもたちに語っていたことを、心の底から自分に言えるようになることを目標にしたのだ。相変わらず落ち込むこともあったけれど、呪文のようにそれを自分に唱えて、気持ちを切り替え、周囲に相談するようになった。

すると不思議なことが起き始めた。育休前は職員室で孤立していた自分に、「雨野先生、ちょっと聞いてもらえますか?」とこっそり相談をしに来る先生が現れるようになったのである。


今でも印象に残っているのは、学校中から頼られている、しっかりもののA先生から声をかけられたときのこと。ある日の放課後、職員もほとんど退勤して、職員室には私とA先生だけが残っていた。

「雨野先生、ちょっと聞いて欲しことがあるんだけど…」

思い悩んだ表情で来られたA先生は、学校の備品を紛失してしまった、と話してくださった。

「管理職に報告しなければいけないけど、勇気が出なくて。まずは雨野先生に話してみようと思ったの。」

それは、見つからないとなれば、学校全体で対応しなければならないようなものだった。私はそのとき、具体的には何ができたわけでもなく、ほんの5分程度、先生のお話を聞いて差し上げただけだったように思う。それでも、話終わったあと、

「明日朝一で報告に行くね!聞いてくれてありがとう!」

とおっしゃった先生の表情にはいつもの朗らかな笑顔が戻っていた。



私が先生を辞めたワケ

学校現場では色々なことが起こる。そして私は相変わらずうっかりミスもする。それでも一年間充実した気持ちで働くことができたのは、職員室の先生方との関係性が変わったことが大きかった。そして、復職前に人間関係がうまくいかなかった一番の原因は、ADHD傾向があるからでなく、自分で自分を否定していたことにあったのかなと思う。

一方で、このままフルタイムで復職になれば育児と仕事を両立させることは自分には難しいと感じていた。

教師の仕事の中で一番やりがいを感じていたのは授業だった。授業の準備をすることに、放課後や休日を使うことが独身の頃はやりがいだったし、楽しみでもあった。授業の中で子ども達同士の関わりや理解を深めて行くことが好きだった。しかし教師の仕事は授業だけではない。行事の準備、委員会やクラブ活動、学級費の管理や公文書の作成と管理など、私が苦手とする様々な事務作業、学校全体の仕事や地域の仕事など多岐に渡る。それをこの先、フルで仕事をしながら授業と両立させていく自信はなかった。

また、息子を通して障害について考えるようになる中で、苦手を克服するよりも、得意なことを伸ばして仕事にしていきたいという思いも強くなっていった。


そうして復職して1年後、私は10年間勤続した小学校教員を退職した。勇気を出して復職した最後の1年間、自分らしく働く中で、子どもたちや先生方、保護者のみなさんと過ごさせていただいた経験は、今も自分の心の支えとなっている。

退職後、私は仕事を得るためにあるイベントに参加した。それが診断を受けるきっかけとなったのである。

つづく                      




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