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発達障害・大人ADHDの診断 その2~心療内科でのカウンセリング~

私は2年前、37歳のときにADHD不注意優勢型の診断を受けました。大人の発達障害の診断について、よくご質問をいただきますので、私が診断を受けた経緯を何回かにわたってお伝えしたいと思います。今回は、職場でのうっかりで背筋が凍ったエピソードと、心療内科を受診した経緯を書きました。


前回の内容はこちら:発達障害・大人ADHDの診断 その1~私ってADHD?~

子どもの頃からのうっかりエピソードを前回の記事でいくつかご紹介したが、就職するまではそういったうっかりネタは場を和ませることのできるひとつのツールとして重宝した。しかし社会人になると、そんなことは言っていられない現実が待っていた。


社会人としてのうっかり事案は…

私は小学校の教員になる前に、3年ほど吹きガラスの工房で職人兼売店の店員として働いていた。あるとき、某○○省関連の結構大事なお仕事で、オリジナルの記念品100個の注文製作が入った。私は梱包を担当することになったのだが、個別包装が全て終わったときに、なぜかガラス作品とセットで入れる台座が3個残っていた。ご想像の通り、うっかり入れ忘れたのだが、なぜか私は自分が間違えたと思わずに予備があったのだと思い込んでそのまま発送してしまい、後で大騒ぎになった。

またあるときは、吹きガラス体験30名という団体のお客様の受付を担当し、予約表を1ヶ月間違えて記入してしまい、当日に大騒ぎになったこともあった。


訴訟レベルのうっかりをしでかしたことも

その後転職して教員になった私はそれを機にしっかり者として生まれ変わった…なんてことはもちろんなく、相変わらずのうっかり街道まっしぐらだった。始業式から早速子どもに配布する重要な書類を間違えて渡してしまい、放課後それに気づいた該当の保護者から厳しいお叱りの電話が入った。

最終的に、まさかの「訴えます」という事態となり、新年度早々教頭先生と一緒にお詫びに伺った。そのお宅の前についたときにはあたりはもう暗くなっていた。暗がりの中でドアの前に立ちながら「これがほんとのお先真っ暗」などとくだらない脳内ギャクをつぶやいていたことはもう10年も前のことだが未だに忘れられない。

(ちなみにこの方はモンスターでもなんでもなく、本当に重要な書類の取違えだったのだ。一般企業であれば謝罪会見をするレベル。また、この一件後、逆に何かとフォローしてくださり、1年間とてもお世話になった。ありがたすぎる。)


またあるときには、給食費の学校全体の集計が合わないという事態が勃発した。超忙しい全校の教職員が昼休みに緊急招集にされ、お金を数え直すことになった。その時点で私は「これ絶対私だよね…何か間違えたんだよね…」と思っていたのだが、結局私だという確たる証拠は出てこなかった。

私はきっと自分が両替を間違えるか何かしたせいなんじゃないかと思っている。そして十中八九ほんとにそう。あのときの血の気が引く感じは今でもたまに夢に見るほどだ。

そんなふうに、学生時代までは名刺がわりだったうっかりネタは、働く中では背筋が凍るようなまったく笑えない状況を生むばかりとなっていた。


心療内科に行ったきっかけは子育ての悩みから

そんなこんなで自己肯定感だだ下がりの中、教員4年目で子どもを授かり、産休・育休に入った。そして2歳差で次男を出産した。

その翌年から、心療内科に1年間ほど通院した。心療内科に行こうと思ったのは、ADHDではなく、育児について悩んでいたことが理由だった。当時精神的に追い込まれていた私は、長男に手を挙げてしまい、このままでは大変なことになると感じてネット検索でカウンセリングも行っている心療内科を見つけ、予約を取ったのだった。

医師との初回の問診では、現在鬱状態にあるが、投薬が必要という状態には見受けられないとのことだった。そこで、カウンセリングを受けることが良いのではないかという話になった。紹介されたカウンセラーは若い女性だったが、信頼できると思える方だった。初めからそういう方に出会えたことは本当にラッキーなことだと思う。

カウンセリングは成育歴の聞き取りから始まり、今不安に思っていることや悩みについて、傾聴を基本として整理していくようなものだった。その後、月に1度、60分のカウンセリングを受けていくことになった。

※ちなみにカウンセリングは保険内で対応できる仕組みになっているところもあるようですが、私が調べたときには近隣の病院は全て保険外でしかできませんでした。


復職するのが怖い…ADHD傾向について相談する

▲教員時代の写真

カウンセリングを受けるようになって半年ほどたったころから、話の内容は子どもについてのことから、ADHD傾向のある自分についての相談、特に育休明けの復職についての不安や悩みに変わっていた。

カウンセラーの先生は、私が不安に思っていることをひとつずつ具体的に確認し、その対策を一緒に考えてくださった。今思えば、その対応策が実際にどのくらい有効かというよりも、第三者が本人の不安に寄り添いながら、何が不安なのかを言語化していくことや、そこから本人が自分なりの具体策を考えること自体が重要なプロセスだったのかもしれない。


ADHDについては医師とも相談したが、投薬はせずに、このままカウンセリングを通して働く中での工夫や育休からの復職に向けてできることを考えていくことになった。

そしてこの時点でも、やはり私は確定診断を受けたいとは思わなかった。福祉サービスを受けたいと思っているわけではなかったし、確定診断があろうがなかろうが、そういう傾向が自分の中にあり、今現在困っているという状況に変わりはないと感じていたからだった。

つづく。


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