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良いパパであるために、やり残したことがある/禹相皓選手(FC大阪)

関西地方が大雪に見舞われた2023年1月下旬。街ゆく人々がありったけの防寒具で武装する中、禹相皓(ウ・サンホ)はコートも羽織らず登場し、こちらを驚かせた。ああ彼は北海道出身だったなと思い出す。最後にインタビューをしてから既に5年の月日が流れ、お互いを取り巻く環境も立場も大きく変わったが、2022シーズンはJFLの舞台で何度かサンホを撮影する機会に恵まれた。彼にとっては初めて経験するカテゴリーとなったJFLで、FC大阪の主力選手としてJ3昇格に貢献した1年を振り返り、2年ぶりの復帰となるJリーグへの抱負を聞いた。

一時期は引退も考えた

2022シーズン、FC大阪への加入がリリースされたのは1月30日のことである。2021シーズンはベトナムでプレーしていたサンホは、日本に戻りJFLのカテゴリーで戦うことになった。

「2021シーズンのベトナムリーグは途中で打ち切りということになり、正直不完全燃焼で終わってしまいました。10月頃帰国して、冬の移籍マーケットに向けて準備を整えながらチームを探していたんですが、 思っていたよりも現実は厳しくて。リーグやチームの評価基準も、自分の年齢のこともよりシビアになっているなと感じました。そこで一旦、セカンドキャリアも考え始めましたが、やっぱりサッカーが不完全燃焼のままでは悔いが残るので、自分でいろいろと模索しながら、このFC大阪にたどり着きました。」

「もう一度Jリーグへという思いはもちろん強かったのですが、自分ひとりじゃなく家族もいますし、ベトナムから帰国してからはずっと家族と一緒にいて、これからもずっと一緒にいたいと思っての決断でした。だからこそ、家族のためにもここからもう一度Jリーグを目指そうと、そういう思いでしたね。」

2022シーズンのJFLは、週ごとに順位がめまぐるしく変わり、どこが相手であっても簡単な試合はひとつもない、本当に難しいシーズンだった。クラブによっては平日は仕事をし、週末になると全国規模で移動して試合に出るというハードなスケジュールも、試合会場や運営上の発展途上感も、全てにおいて過酷なリーグである。しかしそれがまたJFLの面白さでもあり、いろいろな意味で可能性も感じると、このリーグに関わった人々は総じて話す。

「JFLというカテゴリーは初めての経験になりましたが、最初の印象としては、とにかくアグレッシブだなと。身体的にけっこうハードで難しいリーグだと思いました。真夏でも13時キックオフという試合もありましたし、選手やスタッフはもちろん、ファン・サポーターの皆さんも含めて過酷な環境で戦うリーグですよね。それと同時に、選手のサッカーに対する情熱のようなものも、とても感じました。仕事をしながらでもサッカーをするというこの情熱こそ、Jリーグを経験してきた自分からはJFLの魅力だと思います。それぞれひとりひとりにストーリーがあって、ここからJリーグを目指す選手もいて、逆にJリーグでの豊富な経験を周りに伝えてくれる役割の選手もいて、そこに支えてくださっているスポンサー企業や試合運営の皆さんや、いろいろな人の力添えで成り立っている。ロマンのようなものを感じます。」

2022シーズンは23試合に出場。シーズン後半はほぼスタメンで中心的な存在として活躍し、チームの連勝街道に貢献した。昇格が決まった最終節の花園第1グラウンドには12,183人の観客が集まり、声援を送った。

「最終節の花園第1グラウンドでのホーム戦は、もちろんいちばん印象に残っています。J3参入の成績要件は満たしていましたし、必要な入場者数も試合前にはだいたい、これはもう行けたなというのはわかっていましたから、これを勝って昇格したいと思っていました。でも引き分けで終わってしまって。昇格は決まりましたが、達成感がわいて涙があふれるんじゃないかという予想とは違って、ぜんぜん納得できませんでしたね。たくさんのお客さんが来てくれたからこそ、良い試合をしたかったんですけど、そうは行かなかった。悔しくて情けなかったです。でも、この気持ちを忘れずに、次のシーズンはより一層、良い試合をお見せしなければと思っています。」

JFLからJ3に参入するための主要な要件のひとつにホームゲームの入場者数があったため(2023シーズンは改訂)、各クラブはありとあらゆる工夫で集客をしていた。その甲斐あって、FC大阪は入場者数12,000人以上のゲームが2回、これはピッチでプレーする選手にとっても大きなモチベーションになったようだ。

「6月の鈴鹿ポイントゲッターズ戦でも12,000人以上の入場者数がありました。Jリーグでもあれだけのファン・サポーターが集まるスタジアムは少ないと思います。雰囲気も最高でしたし、サポーターからの後押しを受けるあの感じ、なんだか懐かしいなと、やっぱり良いなと思いました。今シーズンもたくさんのファン・サポーターの皆さんに見に来ていただけるように、がんばりたいですね。」

また家族と一緒に過ごすために

初めてサンホにインタビューをしたのは2015年秋、彼がモンテネグロ1部でプレーしていた時だった。その後、2016年夏から2017年の終わりまでは韓国のKリーグでプレー。自身のルーツとなる国ではあるが、日本で育ち韓国語は不自由だったサンホにとって、Kリーグは非常に過酷な環境だったようだ。名前も外見も韓国人、しかし言葉が通じないという彼の存在を、周りは簡単には理解してはくれない。サッカーに対する取り組みへの文化的な違いもあり、自分が日本人なのか韓国人なのか、といったアイデンティティの迷いにもつながった。2017年末に帰国した際のインタビューでは「今は自分は日本人でも韓国人でもない、どの国に属しているのかというようなことはもう、吹っ切れたような気がしている」と語っている。

「あれから5年経って振り返ってみると、韓国でのことは確かに辛かったですが、それでもあのとき韓国にいなかったら今の僕はいないと思えるようになったので。そうですね、良い経験になったと思ってます。国籍のことも、自分のパスポートがどこの国のものであろうと、そういうことじゃないんだということを、この生き方で身をもって示せたらと。ひとりの人間として、良いパパでありたいですし、良い夫でありたいですね。」

モンテネグロにて(2016年4月)

2018シーズンからはJリーグに活躍の場を移し、J2岐阜、愛媛、栃木で2020年末までプレーした。

「Jリーグでは出場機会がそう多かったわけではありませんが、それでも学ぶべきことは多かった。指導者に恵まれて、自分のサッカー観が広がりました。海外にいた時は、どうしても言葉の問題もあって、指導者の言葉が100%伝わらないということもありましたが、日本で独特な感性を持った指導者と出会えたことで、ひとりの選手としても人間としても大きく成長できたと思っています。」

2021年初め、ベトナム1部のサイゴンFCに移籍が決まった。出国の直前に長男が誕生し、妻と生後1週間の我が子を日本に残しての単身渡航だった。

「家族とは離れなければなりませんでしたが、それでも家族のためにとベトナム行きを決めました。実際行ってみると、ベトナムでのプロサッカー選手としての生活は、とても充実していて楽しかったです。僕が本来イメージしていたサッカー人生というか、練習ももちろんちゃんとやるし、試合になったらこう、ヒリヒリする感じ、結果を出さなかったらクビというシビアな環境で、あの世界に熱くなりましたね。この感覚の中でサッカーができることが、すごく幸せな時間でした。」

まだやり残したことがある

2022年7月、FC大阪対東京武蔵野ユナイテッド戦で約6年ぶりにサンホのプレーを撮影した。撮影する側のカメラ機材も写真の腕も、モンテネグロ当時とは雲泥の差ではあるが、彼の身体は変わらず鍛え抜かれ、がっしりとした「ふくらはぎ」はますます健在である。

「ふくらはぎの太さ、あれは厳密に言うと、正しいフォームで走れていないということなんですよ。なので、あまり良いことじゃないんです(笑)。でも僕、幼少期からこの太さで、ずっとふくらはぎを使って走っていることは間違いないので、じゃあ逆にもう、如何にこのふくらはぎのパワーを使って身体を動かすか、ということを考えてトレーニングしています。無理矢理フォームを変えるんじゃなくて、それを伸ばすという考え方ですね。」

「これまでも身体を作るということに関してはこだわってやってきたつもりなので、いつか現役を引退する時が来たら、そのあたりの知識を活かした仕事をしたいと思っています。ベトナムにいた時に、完全ロックダウンになってしまった経験から強く思ったんですが、人間、身体を動かすとハッピーになれるんですよね(笑)。だから、僕ができることとして、身体を整えることでハッピーになる人を増やしたいです。」

ベトナムから帰国して再び家族と暮らせるようにはなったが、仕事をしながらサッカーをするという生活で、一緒に過ごせる時間は多くはない。しかし、だからこそ何がいちばん大切なのかということにも気付くのだろう。2021年頃からサンホはnoteを書き始めたが、そこに綴られる言葉にはサッカーと家族への愛があふれている。間違いなく今の彼を支えているのは、大好きなサッカーをしていることを喜んでくれる家族の存在である。

「なにかを犠牲にしているというわけではありませんが、こういう生活をしてから初めてわかるものもありますね。仕事をしながらサッカーをするということは、トレーニングに使う時間も、家族との時間も少なくなりますが、だからこそサッカーへの愛も、家族への愛もより強く感じています。ベトナムから帰ってきて引退も考えたときに、ひとつやり残したことがあるなと思ったんです。Jリーグのスタジアムで、自分の子どもを抱いて入場したいんですよ。一緒に写真を撮って、パパはサッカー選手なんだよっていうのをわかってほしいなと。それを成し遂げるために1年間がんばってきたのかもしれません。もちろんそれが達成できたら終わりということじゃありませんよ(笑)。妻もいつも、悔いなくやりきってほしいと言ってくれていますし、まだまだ、自分のことを評価してくれる場所がある限り、ずっと続けていきたいと思っています。これまでJリーグ通算46試合なので、いつか100試合達成記念のときに家族で写真が撮れたら、最高ですね。」

禹 相皓(う さんほ)選手
1992年12月7日生まれ。北海道札幌市出身。175cm、75kg。
2015 FC KOREA(関東1部)
2015-2016 OFK Petrovac(モンテネグロ1部)
2016 大邸FC(韓国2部)
2017 大邸FC(韓国1部)
2018 FC岐阜(J2)
2018-2019 愛媛FC(J2)
2020 栃木SC(J2)
2021 サイゴンFC(ベトナム1部)
2022 FC大阪(JFL)
2023- FC大阪(J3)


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