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「ありがたいことに、私たちは皆どう死ぬべきかを知っている」

どこもかしこもコロナの話題で埋まったネットメディアで、興味深い記事を読んだ。

元記事のイスラエル誌も読んでみた。

スイスの哲学者アラン・ド・ボットは、ストア哲学の観点から、常に最悪の事態に備えることが心の平安を保つ手段だ、という。

先の見えない状況の中では、「うまくいけば夏には収束しているだろう」などという楽観主義から現実に突き落とされるよりは、「最低でも2年は続く」と覚悟を決める方がダメージは少ない。

特に共感したのは哲学者の死生観だ。

the good news is that we all know how to die. That’s the only thing we’ve been doing efficiently and systematically, for years now.
ありがたいことに、私たちは皆どう死ぬべきかを知っている。それだけが、人間が何年も効率的かつ体系的に行ってきた唯一のことなのだ。

50年も生きていれば人生で大抵のことは成し遂げているはずだ、永遠に生きたいとの煩悩を捨てるべきだ、との言葉には、同世代として大いに頷けるものがあった。

これまで何度も観た「バリー・リンドン」の印象が違ったのも、自分の年齢とコロナ危機の状況のせいかもしれない。この世でいかに生きようとも、いずれ皆等しく「あの世」に渡る、それだけが唯一の確かな事実。それを受け入れ、そこから出発すれば、よりよく生きられるように思う。

しかし私は哲学者ではない。記事を読み終えた次の瞬間には、友人と「ワクチンなんかあてにならない、結局は免疫力だよね」なんてチャットに興じる。人は今日と同じ明日が来ると信じて疑わない、「永遠に生きたい」ようにできているようだ。

この哲学者も指摘するように、「死」は他者のものしか経験できないからだ。肉親の死、友人・知人の死、有名人の死、他者にしか訪れないものとして、私たちは「死」を経験するしかない。自分の「死」は一回限り、いつ来るかわからない漠然とした何かを常に意識するほど現代人は暇ではないし、種の存続のためにも人の「忘れっぽさ」は必要なんだろう。


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命に関わる病気にかかりでもしない限り、自分自身の死は怖くない、今のところは。「最悪の事態」とは自分の死ではなく、大切な人の死だ。遠く離れて暮らす親や家族、まだ独り立ちしていない子供たち、何十年も親交を結んできた数少ない友人たち。彼らを失うという「最悪の事態」に備える覚悟はまだできていない。哲学者の言葉は、自分の心の奥底にある、普段は意識していない不安の扉をこじ開けた。当分はこの「最悪の事態」について考えることになりそうだ。



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