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『最悪のケースも頭に入れて欲しい』【総合病院E-ICU7日目】

どうしてこんなに全身状態が悪いのか原因がわからない。原因がわからないから治療のしようもない。どんどん悪化していく父の状態に、なすすべなくベッドサイドで父にリップクリームを塗ってあげる日々が5日間続いている。極度の脱水と室内の乾燥で父の唇はいつもボロボロだった。

最初の頃は「病院のおかずっておいしいんだね」とか、「おにぎりにしてもらったら少し食べられたわ」と話していた父。ここにきて一切の食事を食べてくれなくなり、お腹が痛くなるのが嫌で水を飲むのも怖いと言うようになった。できるだけ腸から栄養を吸収して欲しいというお考えのグレイ先生の指示の元、「朝食」「昼食」「夕食」と札を貼られたドリンクタイプの栄養補助食品が机の上に溜まっていった。甘くて飲みたくない、らしかった。

「呼吸が苦しいのは胸に水が溜まっているからです」と、ひとみ先生。当初から足の浮腫はひどかったが、手もパンパンに膨れ上がってまるで”つきたてのお餅”のようになっていた。その上さらに胸やお腹にも水が溜まるように。「水を抜けば楽になれるが、慎重に抜かないと血圧が下がったりしてショック状態になる。透析とともに全身管理をしていますが、少し苦しそうですね」とも。

呼吸が苦しいからか、父は口数が減って来たように感じた。もともとこの病院のE-ICUは『面会は1日10分程度に』と言われている。あまり長居をすると疲れてしまうのでは?と思う反面、少しでもそばにいたい…と必死に「やるべきこと」や「話すべきこと」を探している自分がいた。ただこの状況では、家族にできることなんてほとんどなかった。

うつらうつらしている父の脇で「ひとみ先生からお話がある」と言われ面談室へ。外部に委託していた細菌検査の結果はほとんど全てで陰性とのこと。見た目からしても入院時より良くはなっておらず、有効な”治療”のしようがないのに加えて入院前から続いている栄養不足も重なり、全身状態が回復していない。

『このままだと何があってもおかしくありません。最悪のケースも頭に入れておいていただきたいと言わざるを得ません』

重くて冷たい言葉だった。

『先生の話聞いて来たよ。なんだかまだ原因はわからないみたい。お父さん、がんばろうね!また明日来るからね〜』両手を大きく振ってバイバイのポーズを取り、病室を後にした。この時ばかりはマスクで顔が見えなくて良かったと心底思った。声の調子とは裏腹に、多分まったく笑ってなかったと思う。

下のカフェでケーキ食べて行かない?と妹を誘った。本当は1秒でも早くタバコが吸いたかった。院内はおろか敷地内ももちろん禁煙。だったら今すぐにドカンと甘いものでも食べなければ卒倒しそうな気がした。濃い目のコーヒーとともにニューヨークチーズケーキを半分ずつ食べた。

父じゃないけれど私も食事が喉を通らなくなっていた。何を食べてもおいしいとかまずいとか感じない。まず”食べたい”という気持ちが湧いてこない。いつも妹がうどんを作ってくれたり、好物の寿司屋に連れて行ってくれたりした。が、3皿ほど食べて「もういいや」と箸を置いた。我ながら異常事態だ。普段なら回転寿司20皿は余裕で食べるのに。

一方、妹は”常に”食べていた。朝から寝る直前まで何かしら口にしていた。それは妹も異常事態だということを意味していた。いつもはそんなに食べる方ではないし、ここ数年、本を出版できるのでは?と思うほどのダイエットに成功している。

つまるところ、姉妹揃っておかしかったのだ。それが二人とも「食」に表れていた。

妹がいてくれて本当によかったとずっと思っていた。ひとりだったら…と思うとゾッとした。そうしたら妹が『いつまでも、あると思うな、姉と金』などとうまいことを言い出す。お互いに精神的にギリギリの戦いを繰り広げながら、ただ一緒にいる、存在自体で支え合っていたのだと思う。

「最悪のケース」この言葉の重みに耐えられなくなって、オットの声が聞きたくなり電話をかけたが、その時は何回コールしても出なかった。終話ボタンを押す時にはなんともいたたまれない気持ちがしたけど、よく考えたら出てくれなくて助かった、と思った。声を聞いた瞬間号泣している自分の姿が浮かんだからだ。LINEで先生の話を説明し、夜になって再度電話した時には落ち着いて話せた。

翌日、入院7日目。1時間ほど待たされてから病室に行くと、今までになく呼吸が乱れ意識が朦朧としている父の姿がそこにあった。父はいつも私たちが来ると目を覚まし、話そうとしてくれる。そんな余裕もないはずなのに、何かを話そうとしている。

少し、寝たら?と父のお餅のような手を握った。安心したかのように目を閉じる父を見ているうちに、前日に言われた「最悪のケース」が近づいているのかもしれない…と思った。血流が悪く冷たい父の手を握りながら、マスクの中は涙と鼻水で洪水になっていた。「父にバレてはいけない」そう思うと垂れ流しにするよりほかなかった。

お葬式ってどうやって手配するの?
父の知り合いとかって、誰に連絡すればいいんだろう?
私が喪主なんだよな…
死因がわからなければ病理解剖なのかな…

この頃毎晩、眠りにつく前には決まってそんなことが頭をよぎり「何、考えてんだよ!」と心の中で怒鳴りつけているもう一人の自分がいた。

父はガン家系だった。両親をともにガンで亡くしている。父がもしもガンだったとしたら、私も妹も受け入れる準備はすでにできている。そしてそれは父本人も同じだった。だけど原因もわからず、何の病気で最悪のケースを想定させられているのかもわからない。そう考えると65歳の父を見送るなんてまだ早すぎる、全然諦められなかった。

いつまでこんなに苦しいのが続くんだろう…なんで父が…このまま何もわからないまま悪くなる一方なの?

冷静な妹が看護師さんに説明を求めると、ひとみ先生を連れて来てくれた。「先ほど胸から骨髄を取る検査をしてきたんです。検査でだいぶお疲れだと思います。ちょっと苦しそうですね、酸素上げましょう」

・・・は?なんでそれを先に説明してくれないの?!

てっきり父の病状が悪化したのだと。前日の「最悪のケース」と勝手に結びつけて悲劇のヒロインみたいになってた私、バカみたいじゃんか!!なんか違う涙が出て来たわ。

思い込みが激しすぎる自分にホトホト呆れる。父の様子を見て一喜一憂し、イメージが悪い方悪い方に働いて、いろんな情報をその悪いイメージにくっつけようとしている。そういう自分がものすごく嫌になる。

この時は感情に振り回されすぎて「なぜ骨髄の検査を?」という素朴な疑問が浮かんでこなかったが、後になって聞いた話によるとこの頃からグレイ先生は感染症以外の原因も探り始めてくれていたらしい。

入院から1週間、先生方からも「我々も急がないといけないと思っています」と焦りの様子がうかがえた。




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