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郊外、海外の郊外 N168

 郊外というと廃退的なイメージや社会の負を背負ったイメージがどうしてもある。いつも不可解な象徴的な事件が起きるのは郊外だし、何かを阻害された生活のシンボルとしてドキュメンタリーや小説は描かれる。  

 そしてその郊外で育った子供たちは高校卒業の際にそこに留まるか、都会に逃避するかの選択肢を選ぶ。経済が成長していた頃はとりあえず都会に行けばなんとかなったのだが、最近は必ずしもそうではないこともあるようだ。都会に行くこともリスクをはらむ。  

 また一昔前は郊外こそ文化だったのだが、今はデジタル化が進んだためなのか、文化は郊外の現場では起きず(事件こそ起きるが)、洗練された場所で起きる。それは東京だけではなく、美瑛町や屋久島のようなスノッブな場所も含めてだ。つまり田舎とか都会という尺度ではなく、質のある生活の場と質のない生活の場で分けられる。美瑛で美味しいパンを食べてスキーをライフワークにするような生活のクオリティーは高い(当たり前だが)。  

 では海外の郊外はどうなっているかというと非常によく似ていると思う。やはりいつも不可解な象徴的な事件が起きるし、何かを阻害された生活のシンボルなのだ。日本で日本の活字を読む限りは海外の郊外で起きていることを報道されることはないので知ることはないが(事件が起きてもわざわざ郊外で起きた事件と説明をしない)、現地で生活すると郊外の事件だと知るようになってくる。  

 先日、遠方に出かけた帰路の途中でショッピングセンターに寄ったところ、そのショッピングセンターは中東のようであった。それは人々が中東系の人ばかりだっただけではなく、ショッピングセンターのつくりもお店も中東のようなデザインや建築だった。まるでタイムスリップならぬドコデモドアを開けたような経験だった。  

 海外はよくマーケティングをする時にセグメンテーションをする。移民が多い国の場合は世帯年収だけではなく人種や民族まで似通ってくるので行動パターンが画一化して捉えやすい。わかりやすい例では豚肉を食べない人たちが多い場所であえて豚肉を売る必要はないわけだ。またコミュニティが出来上がるので独自の文化も芽生えやすい。チャイナタウンは都心の中心部で形成されるが、その他の民族は郊外で育ちやすい。そしてその国の労働力の一部として機能している。  

 日本にも似たような民族的に集約された郊外が生まれつつあるようだが(それは外国からくる移民の行動パターンなので日本の地だけ特別ということはないだろう)、まだ歴史は浅い。しかし20年、30年後に海外のような郊外が生まれてくる可能性は大いにあるだろう。 

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