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マスクを外して街へ出る


職場の我が部署に、新入社員が配属された。
もう一度言う。我が部署に新入社員がやって来たんである。

これは奇跡と言っていい。

職場のマリー・アントワネットこと同僚の木村さん(仮名)は入社30年のベテランだが、入社以来こちらの部署一筋の生え抜き、異動は一度も無しというレアなお方。その木村さんが言うには、彼女を最後に新入社員が入ってきたことは皆無だったのだという。(異動で後輩が来たことは有り)

「何教えればいいんだろう……」
「後輩慣れしてないからな……」
「年が離れすぎてて……」
「背中を見てもらうんだよ、仕事は先輩の背中を見て覚えるんだよ!」

新入社員などというフレッシュな存在とは縁がないと思い込んでいた60代1名、50代3名、30代1名の昭和ど真ん中な我が部署のメンバーたちは、完全に浮足立った。
皆、言っていることが若干おかしい。

ピカピカの21世紀生まれの新入社員は、某野球選手に似ている(マスク姿)ので、私は心の中でハヤトと呼んでいる。

ハヤトは暇な時期に来てしまったので、少しほっとかれると、
「あの、あの何か仕事……、仕事ありませんか?」
と仕事に飢えた餓鬼のようになっている。
配属3日目にして、さっそく早番と遅番を間違えるというやらかしをしてしまい、言い訳もせず謝るハヤト。
「これ15個梱包しといて」と頼んだら、丁寧にやりすぎて時間内に10個しか
できなかったハヤト。
今週に入って急に忙しくなり、あちこちに引っ張り回され、緊張の面持ちで必死についていくハヤト。
木村さんの延々と続くおしゃべりをひたすら聞かされるハヤト。
ジョジョラーらしいことが判明したハヤト。

自分がその仕事についてきちんと理解していないと教えることはできない。改めてそんなことを感じ、学ぶことの多い新入社員とのあれこれ。
まだ2週間だが、私はハヤトの懸命に考えながら話す感じや、時々ツボに入るボキャブラリーがなんとなく好きだ。

がんばれ、ハヤト。



5月末に旧友ふたりと会うことになった。

中学生のころからの友人であるふたりとは、流行り病で何年も会えなかったから、本当に久しぶりの再会で楽しみにしている。
ふと考える。
何を着ていこうか。
思えばこの3年間、外出着といえる服を買った覚えがない。そもそも仕事以外で人と会うことがほとんどない、そんな3年間だったように思う。

服を買いに行こう。
よく晴れた休日の午後、駅に向かったところで違和感に気付いた。

あっ、マスクつけるの忘れてきちゃったわ……

あわてて辺りを見回す。多くの人がまだマスクをつけていて、私は落ち着かない気分になる。考えてみると、マスクを着けずに外に出たのは流行り病の前が最後なのだった。
どこかでマスクを買おうか。
いやいや、マスク無しでもいいじゃないか。
開き直った私は、そのまま地下鉄に乗って商業施設へと向かった。

平日にもかかわらず、商業施設はたくさんの人でにぎわっている。
暑さのせいもあってか、マスクをしていない人もけっこういた。体感で1/3くらいがマスク無しだったように思う。
楽しそうに街を歩く人々の表情を見るのは良い。
最初は気になった周りの人の視線が、しだいに気にならなくなっていく。

私は大きく空気を吸い込んで、そして大きく息をはきだした。
この3年間、忘れていたいろんなものの匂いが、圧倒的に感じられる。

初夏の熱い風の匂い。熱いアスファルトから立ち上る空気の匂い。
ああそうだ。海はこんな匂いだった。



海を見て、なぜか歯磨き粉を買って。
気に入ったものが無かったから、服は買わなかった。
またマスクを外して探せばいい。

職場はまだマスク着用だが、ハヤトが本当に某野球選手に似ているのかどうか、判明する日も近いだろう。
海を見ながらそんなことを考えてニヤリとする。


そんな、何も起こらない一日。
それが、うれしい一日。





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