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「超・長期的視点」を持っていた聖徳太子
これまでお話してきたように、
冊封体制というものは、
中華王朝側も中華王朝に朝貢する側も、
双方メリット・デメリットはあるもの、
一見、よくできた制度でした。
(「冊封体制」については下記参照)
ところが、
これに抵抗したのが、
聖徳太子率いる日本でありました。
![](https://assets.st-note.com/img/1671223028053-mPTwjDd1P9.jpg)
実は、
日本も古墳時代のある時期には
中華王朝の冊封体制に
組み込まれていた時期があった
とされています。
![](https://assets.st-note.com/img/1671223287509-EdgRDiVUYm.png?width=800)
当時の中華王朝は宋王朝、
いわゆる、
倭の五王「讃・珍・済(せい)・興・武」
の時代です。
![](https://assets.st-note.com/img/1671223514305-926MFd5fvv.png)
倭の五王。
「王」という称号が、
中華王朝の冊封体制下で与えられるもの
であることがわかると思います。
*中華風の「王」の説明は以下の記事にございます。
この五人の倭国王の「讃・珍・済・興・武」
という名は、
宋の冊封体制の中で
中華王朝風の名を名乗らされたもので、
倭国王の姓は「倭」
であったことが分かっていますが、
これもまた、
中華様から与えられた姓でした。
ちなみに、
中華王朝による
日本の天皇の「倭」という姓、
及び、
日本の「倭国」
という文字の意味ですが・・・、
この
中華様独特のネーミングセンス
においても、
中華王朝の中華思想が
色濃く反映されているという事が分かります。
・・・もちろん、悪い意味でです・・・。
![](https://assets.st-note.com/img/1671224146359-YNeNO6C4DF.png)
中華王朝は中華思想における、
中華文明こそが最高であり、
中華以外は全て野蛮である
という完全無欠の思想のもと、
周辺の(異)民族を、
「東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)、
南蛮(南蛮)・北狄(ほくてき)」
というように蔑称で呼称していました。
![](https://assets.st-note.com/img/1671224794850-MYivobEtta.jpg?width=800)
簡単に要約すれば・・・、
東夷は「東のおちびちゃん」、
西戎は「西の馬鹿」、
南蛮は「南の野蛮人」、
北狄は「北のアホ」、
的なイメージです。
![](https://assets.st-note.com/img/1671225107881-2Ou3we5u7m.jpg?width=800)
また、
卑弥呼の記述がある、
有名な「後漢書東夷伝」のタイトルにある
「東夷」という呼称も、
もちろん日本に対する蔑称で、
中華様の東側にいるチビ達という意味です。
![](https://assets.st-note.com/img/1671225471066-ifbDnVHwSg.jpg)
同じように、
日本に対する「倭国」
及び、
天皇(五王)の姓
として与えられた「倭」
という文字の意味は、
「背が曲がって丈の低い人」、
つまり、というか、やはり、
「おちびちゃん」という意味だったのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1671225622332-p4jwSjWSK3.jpg?width=800)
なんと失礼なネーミングでしょうか!?
これは明らかに
中華思想からくるネーミングセンス
と言って間違いありません。
このように、
「おちびちゃん」
などというような蔑称
を付けられていた
ということからも分かるように、
古墳時代のある時期の日本は、
中華王朝の冊封体制下に
入ってしまっていたのです。
それにしても、
悔しいです・・・。
![](https://assets.st-note.com/img/1671225860067-0FHwrNei7K.png)
しかし、
ある時期になり、
中華王朝の冊封体制下から
脱却する決意をし、
実現させた人物、
いや、
偉人がおりました。
短期的な損得勘定
だけで考えれば、
中華から冊封を受ける国は
大きな利益を受け、
それに伴うマイナスは
ほとんどないに等しいのだから、
日本も他国と同様に
中華王朝の冊封を
受け入れていればよかったはずです。
そうすれば、
中華王朝の属国にはなってしまいますが、
大きなメリットを享受できたはずです。
ですが、
日本はその楽な道を選ばず、
損得や理屈ではない部分で
中華王朝による冊封体制と決別する道
を選びました。
そして、
当時の中華王朝・「隋」の
恐ろしい国家戦略に対し毅然と、
そして、
公然と立ち向かった人物こそが・・・、
「聖徳太子」だったのです!
![](https://assets.st-note.com/img/1671226303183-XD3xD88bcQ.jpg?width=800)
まさに偉人!
聖徳太子が考える国家構想は
非常に壮大なものでした。
聖徳太子が見ていたのは、
何年・何十年先の国の繁栄
などという目先のメリットに囚われた
小さな国家構想などではありませんでした。
聖徳太子の構想する
日本国の未来とはおそらく、
何百年・何千年という長期スパン
における未来を見据えた国家構想
における
外交政策・外交方針であったのです!
・・・。
ちょっと話が壮大になりすぎたでしょうか・・・?
そんなことはありません!!
現代に繋がる
その後の歴史(特に近頃の対中外交)
を見てみると、
聖徳太子の外交方針が
いかに正しかったと理解できるはずです。
次回、
世界の歴史は「王朝交代の歴史」
乞うご期待!
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