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「超・長期的視点」を持っていた聖徳太子

これまでお話してきたように、
冊封体制というものは、
中華王朝側も中華王朝に朝貢する側も、
双方メリット・デメリットはあるもの、
一見、よくできた制度でした。
(「冊封体制」については下記参照)

ところが、
これに抵抗したのが、
聖徳太子率いる日本でありました。

聖徳太子像もさまざま

実は、
日本も古墳時代のある時期には
中華王朝の冊封体制に
組み込まれていた時期があった
とされています。

びっくりでしょ?

当時の中華王朝は宋王朝、
いわゆる、
倭の五王「讃・珍・済(せい)・興・武」
の時代です。

倭の五王?

倭の五王。
「王」という称号が、
中華王朝の冊封体制下で与えられるもの
であることがわかると思います。

*中華風の「王」の説明は以下の記事にございます。

この五人の倭国王の「讃・珍・済・興・武
という名は、
宋の冊封体制の中で
中華王朝風の名を名乗らされたもので、
倭国王の姓は「倭」
であったことが分かっていますが、
これもまた、
中華様から与えられた姓でした。

ちなみに、

中華王朝による
日本の天皇の「」という姓、
及び、
日本の「国」
という文字の意味ですが・・・、

この
中華様独特のネーミングセンス
においても、
中華王朝の中華思想が
色濃く反映されているという事が分かります。
・・・もちろん、悪い意味でです・・・。

まったくもう・・・

中華王朝は中華思想における、
中華文明こそが最高であり、
中華以外は全て野蛮である
という完全無欠の思想のもと、
周辺の(異)民族を、
東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)、
南蛮(南蛮)・北狄(ほくてき)

というように蔑称で呼称していました。

これです、これ!

簡単に要約すれば・・・、

東夷は「東のおちびちゃん」、
西戎は「西の馬鹿」、
南蛮は「南の野蛮人」、
北狄は「北のアホ」、
的なイメージです。

どうおもいます?

また、
卑弥呼の記述がある、
有名な「後漢書東夷伝」のタイトルにある
東夷」という呼称も、
もちろん日本に対する蔑称で、
中華様の東側にいるチビ達という意味です。

いや、怒るでしょ?

同じように、
日本に対する「国」
及び、
天皇(五王)の姓
として与えられた「
という文字の意味は、
「背が曲がって丈の低い人」、
つまり、というか、やはり、
おちびちゃん」という意味だったのです。

日本を、天皇を馬鹿にするのもいい加減にしろよ?

なんと失礼なネーミングでしょうか!?

これは明らかに
中華思想からくるネーミングセンス
と言って間違いありません。

このように、

「おちびちゃん」
などというような蔑称
を付けられていた
ということからも分かるように、
古墳時代のある時期の日本は、
中華王朝の冊封体制下に
入ってしまっていたのです。

それにしても、
悔しいです・・・。

く、くやしい・・・

しかし、

ある時期になり、
中華王朝の冊封体制下から
脱却する決意をし、
実現させた人物、
いや、
偉人がおりました。

短期的な損得勘定
だけで考えれば、
中華から冊封を受ける国は
大きな利益を受け、
それに伴うマイナスは
ほとんどないに等しいのだから、
日本も他国と同様に
中華王朝の冊封を
受け入れていればよかったはずです。

そうすれば、
中華王朝の属国にはなってしまいますが、
大きなメリットを享受できたはずです。

ですが、

日本はその楽な道を選ばず、
損得や理屈ではない部分で
中華王朝による冊封体制と決別する道
を選びました。

そして、

当時の中華王朝・「隋」の
恐ろしい国家戦略に対し毅然と、
そして、
公然と立ち向かった人物こそが・・・、

聖徳太子」だったのです!

こんな表情も

まさに偉人!

聖徳太子が考える国家構想は
非常に壮大なものでした。

聖徳太子が見ていたのは、

何年・何十年先の国の繁栄
などという目先のメリットに囚われた
小さな国家構想などではありませんでした。

聖徳太子の構想する
日本国の未来とはおそらく、

何百年・何千年という長期スパン
における未来を見据えた国家構想
における
外交政策・外交方針であったのです!

・・・。

ちょっと話が壮大になりすぎたでしょうか・・・?

そんなことはありません!!

現代に繋がる
その後の歴史(特に近頃の対中外交)
を見てみると、
聖徳太子の外交方針が
いかに正しかった
と理解できるはずです。

次回、
世界の歴史は「王朝交代の歴史」

乞うご期待!



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