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死にたかった奴等の行方

あの頃、死にたかったきあの人たちは、今どうしているだろう。


あの頃死にたかった私たちは、GREEやmixiの死にたい人たちの集まるコミュニティに参加して、ただ「死にたい」と書き込んでいた。

あの頃死にたかった私たちは、前略プロフに秘密のリンクを作り呟くだけのページに「死にたい」と書いていた。

あの頃死にたかった私たちは、JUGEMやヤプログやAmebaのブログサイトを人と交流するわけでもなく作り、「死にたい」思いの丈を書いていた。

あの頃死にたかった私たちは、Twitterに「死にたい」と書き込んで、同じ思いの人を見つけては、その「死にたい思い」を「お気に入り」していた。

私たちはいつも、死にたかった。

あの頃、あの頃、あの頃、どこかのページですれ違ったあの人たちは、今も死にたいのだろうか。
実は場所が変わっただけで、同じ人とすれ違い続けているのだろうか。

あの頃、あの頃、あの頃、死にたかった私は、今も死にたいです。
だから、あの頃、あの頃、あの頃の私は安心するといい。
死にたくなくなって、能天気に生きることを恐れていた私。
大丈夫。私は能天気なふりがもう少し上手くなっただけで、なんにも変わらないから。
存分に絶望して安心して欲しい。

あの頃の私、私はこれからも完全に堕ちることも、完全に浮上することもできずに中途半端で宙ぶらりん。
完全に堕ちたかったよね。
わかる。今だってずっとそう。日の当たらないところで、自分を傷つけて、自分を売って、痩せ細って、狂っていたいよね。
今のエネルギーが、あの頃の私にあれば、できていたかもしれないね。
そのくらい今、まあそこそこ動けているよ。
驚くよね。私、6時間以上も立ち仕事して、週に2回は先生してんだよ。
ビビるよね。わかる。
いますぐその身体を傷つけに行けるよ。今の私なら。


死にたかったあの人たちの中には、ほとんどそう思わなくなっている人もいるのだろうか。
死にたいまま、就職したり結婚したり子どもを育ててる人もいるのだろうか。
わからない。
何万人もいたはずの、あの人たちは、まだこの世界にいるのだろうか。


私は、私が一番望まない汚れ方をした。
そう、ある一点において。結果として。
それは相手を恨むに値する。私は恨んでいい。
私は私が「汚れよう」と思って汚れたかった。
無責任で怠惰な奴は、綺麗事を言う。まるでそれがあたかも「綺麗なこと」のように美化する。そして、捨てる。いや、捨てすらもしない。
決断という決断、すべてを放置し、放棄し、奴はそこにいた。

それ以外の一切を、私は後悔していない。
死にたいまま、常にいつもの選択に後悔はない。
一般的には相当悲惨な状況にある。
しかし、それがいいかどうかは別として、ここまで来る過程に後悔はない。

けれども、あの頃と同じ場所同じ部屋でずっと、まだ死にたい。
人は変わりながらも、変われない。

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