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アセクシャルを自認していた私がクエスチョニングになった話

ずっと自分が「女」であることに違和感があった。
だからといって、「男」になりたいわけではない。
膨らむ胸は大嫌いで切除したいと今もまだ思っているけれど、性別を変えたいわけではない。
ひらひら揺れるリボンや、ふんわりしたレースのついたワンピースといった「女の子」のまるで記号のようなものは寧ろ好みで、可愛いものに目がない私。
だけど、自分が「女」であることには言いようのない違和感があるのだ。

私は、「恋」をしたことがない。
男性から「好きだ、付き合ってください」と言われても、その意味が分からない。
納得のいかないことはしたくない私は、傷つけない言葉をネットで検索してうまくかわしてきた。思わぬところで「思わせぶり」とやらをしてしまっていたらしく大変なストーカーに遭ってしまったこともある。


人と関係を築くことが難しいと、自分は人間関係が不得意なのだと自覚している。
でも、友達もいるし、人として大好きな人は何人かいる。
私の胸に痞える違和感の正体は未だ分からない。
つい最近まで、自分を「アセクシャル」ないし「Aセクシャル」と自認していた。

しかし、ある出来事によって、それにさえ違和感を覚え始め、今、私は自分を「クエスチョニング」として位置づけている。

今日はその出来事について記録したい。


フランス留学の最終日、パリのオペラ地区のホテルにて、私は一緒に出発した七つ年下の学部の男の子に「好きだ」と告げられた。
彼の言葉に、「いつもあれだ(男の人が性的目的で近づこうとしてくるあれ)」と警戒し、一瞬恐怖を覚えた。
けれど、この子と毎日顔を合わせた日々で「怖い」と思った瞬間はなかったと思い返し、彼の戸惑った、けれど一所懸命なその目に、私もきちんと向き合おうとした。


私は、男女の関係がわからないこと、恋をしたことがないこと、自分を無性愛だと思っていることを告げ、
「君の人生を大切にしてほしい」という旨を伝えた。


まだとても若い彼の若く輝かしい時間を、7つも歳上の私のような訳のわからない人間と過ごしては勿体ない。恋人がほしいなら、それに答えてくれる子は山ほどいる。私は、恐らく君のしたいことをしてあげられない。
あなたの好きは、どんな意味の好きなの?

以上が私は話した大筋だ(好きだと言っている人に対して失礼な投げかけであることは承知である)。
私の問いかけに、彼は「違う、そういう関係になりたいわけじゃない、でも、好きで」と何かを必死に伝えようとしていた。「ちがう、そうじゃないんだ」と泣きながら彼は「なにか」を伝えようとしていた。
話しているうちに、自分は何でこんなにもヘンテコな人間なんだろうと私も涙があふれてきた。
ゴールの見えない話を泣きながら三時間はしていた。
泣きつかれて私は、ベッドに横たわる。ベッドの中でも、ゴールの見えない話を続けていた。
でも、その数時間で私は今までに得たことのない、喜びのような安心のような何かを感じていた。
「二人だけの、形にとらわれない関係性を模索してみよう」
これがその日の落としどころだった。
「私にとって、君は弟のような存在だよ」
そう言うと彼は、それじゃ嫌だと言う。友達も違う。でも、彼氏になりたいわけでもない。
「大切にしたい」そう告げられた。

不思議な日だった。
私は彼と同じベッドで手を繋いだ。
手を繋ぐ瞬間にも「怖くない?」と彼は私に確認をする。
手を繋いだまま、私は自分が抱える病気のこと、普通ではないことを少しだけ伝えた。
うっすら記憶が遠のいて、二時間くらい眠っただろうか。
私はうっすら目を開けて、横にいる彼があたたかいことが嬉しくなって抱きついた。
怖くなかった。
男性に触れられて拒絶反応がでるのが常だった私はその自分の行動が理解できなかったけれど、どくどく言う彼の鼓動がすごく安心できた。

フランスから帰国して、彼との関係は「大切な人同士」となった。
今、彼と唇が触れることも、素肌で抱き合うことも、できている。
たまに、やっぱりやめておけばよかった、やっぱり無理かもと思ってしまうこともあるけれど、基本的には、そのような愛情表現を受け止めることができている。
大丈夫か、怖くないかをしつこいくらいに確認してくれる彼が愛おしいと思う。
ということは、私はアセクシャルではないの?
自分のことがますますわからない。
「女としての私のことが好き」である事実に、やはりまだ戸惑いがあるし、正直嫌だ。
私は彼の性別が何であっても同じように愛おしく思えるのになぁと切なくなる。
でも、そういう違いもひとつひとつ確認して築いていく関係性を今は大切にしていきたい。
だから私はいま、クエスチョニングとして自分を認識している。

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