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「ライフ・イズ・カラフル!未来をデザインする男ピエール・カルダン」を観て

初日の10/2に鑑賞してきましたが、内容が深いので
さらっとお伝えできず パンフレットを読み返しながら
まとめていました。

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結論から言うと、このドキュメンタリー映画は
ファッション好きの人だけでなく、ポジティブにクリエイティブに
生きたいと思う全ての人におススメの映画です。

ファッションも人も街も、それぞれ背景がある。

カルダンがどういう思いで服を作るのか、
何を考えていてどういう人なのか、、。

人は「多面体」で奥深いものだし、
街もふらっと通ったり、観光地を訪れただけでは理解できない。
どういう歴史を経て現在こうなったのか、。

「人生ストーリー」としてもとても興味深い映画でした。

なんといっても、この映画に98歳のご本人が元気に
出演されて沢山お話されていることが超貴重です。

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ピエール・カルダンのルーツと歩み


1922年7月2日、イタリアのヴェニス近郊で生まれる。
2歳の時にファシズムが台頭するイタリアからフランスへ
一家で移住。
第二次世界大戦下には、赤十字社に勤めた。
45年 憧れだったパリに移り、「マダム・バカン」のアトリエで
ジャン・コクトーの映画『美女と野獣』の衣装を担当する。

その後、クリスチャン・ディオールの元で働き50年独立。
バレエ、演劇、映画のコスチュームを多く手がけ53年に
初めてオートクチュール(高級仕立服)・コレクションを
発表し一躍注目を浴びる。

59年、初めて婦人プレタポルテ(既製服)・コレクションを発表、
男性モード界にも進出する。

ファッション後進国だった日本や、中国・ソビエトなどに積極的に
進出し、活躍の場を広げる。


既成概念を破壊する先進的な姿勢


1960年代前半、カルダンは「私の目標は一般の人の服を
作ること」と宣言した。
百貨店プランタンで、憧れの新作が手ごろな価格で手に入る
”モードの民主化”を庶民は大歓迎。翌年には、250人のメンズモデル
を起用したショーを初開催。

ビートルズもカルダンの襟なしジャケットを着用!

白人女性が主流だったファッションモデルに、アジアン・ビューティー
の松本弘子や黒人モデルナオミ・キャンベルを起用するなど
既成概念にとらわれない先進的な姿勢を貫く。

その後、ファッション以外にもライセンスビジネスに初参入する。
航空会社ユニフォーム、家具、香水、タオル、自動車などの
デザインを手がけ ピエール・カルダンのロゴを世界中に広めた。


布の魔術師、立体裁断


1958年に初来日し、1か月にわたり東京で立体裁断講座を開講。
桂由美、森英恵、高田賢三なども受講し 平面裁断が主流だった
日本に新風をもたらした。
その技術は今も伝えられ続け文化服装学院の名誉教授となっている。


ジャンヌ・モロー


映画「死刑台のエレベーター」、「マタ・ハリ」で知られる
フランスを代表する女優ジャンヌ・モロー。
ココ・シャネルの紹介で、映画の衣装を担当した時に知り合う。

カルダンを見初めたモローが猛アタックをして、その後公私に渡り
数年間パートナーとして交際。
ジャンヌ・モローは17年、89歳で死去。

劇場を所有


かって舞台俳優を目指していたカルダンは、1970年に劇場を買収。
フランス国内外の才能ある新人にデビューのチャンスを与えた。
12年、1度手放すも現在は場所を移して映画館を併設する施設を
建設中。01年に購入した城では、毎夏に野外フェスティバルを開催。

マキシム・ド・パリのオーナーとなる
アールヌーボー・スタイルの老舗高級レストラン「マキシム・ド・パリ」は
常にパリの社交場だった。
60年、カルダンが新作のスモーキング姿で店に入ろうとしたところ、
ドレスコードにひっかり門前払いされてしまった。
81年に経営権を全面的に獲得し、理想のマキシムに作り替えていった。

最後にカルダンの言葉

「リスクは素晴らしく刺激的だ。常にもっと遠く、遠くへ行くこと、
それが大事だ」

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どんな時代になっても変わらない信念と情熱を持ち続けることが、
創造の源になっている。
凡人にはとても真似が出来ないことですが、エネルギーは確実に
頂けました♪

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