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脳出血入院記(19)2023年3月下旬 本当の退院

 自宅のアパートに帰ろうと決めてから、毎日ちょっとずつ自分で運べるくらいの量の私物を実家からアパートに持って帰って来るようにした。
 まだ両親にはまだ言わない。言ったらどうせ何だかんだと引き延ばされる。僕の準備が全部できたらその時に報告するだけ。
 ただ、アパートに帰ることを決めてかたら気持ちが軽くなって、些細な問題は流せるようになった。絶対に妥協できないことは流さずに真正面から断るけど、それ以外のことは今更どうされようが別にどうでもいいので流す。

 アパートに持ってきた私物を仕舞いつつ、アパートの部屋にある物を色々と確認したみたら、僕の記憶では「ある」と思った物が「ない」ことにちょこちょこ気付く。僕の勘違いではないと思うんだよなぁ。日用品の買い置き関係はほとんどごっそり無くなっていた。両親が「使わないと勿体ない」と思って実家に持っていったらしい。僕の物を勝手に持って行くなよ。まぁ、もう一度あらためて買えばいいだけだから、別に今更どうでもいいけど。

 3月の下旬になり、アパートの周囲の雪が完全に溶けて無くなった。また外を歩ける。昼間に暖かくなった日は外に出て、アパートの周りを歩くのを再開した。冬の間にペダル漕ぎ運動と踏み台運動と続けていたので、足腰の筋力低下はないようだ。大丈夫。しっかり歩ける。僕は歩ける。

 綺麗な青空の日、一番近いスーパーまで歩いて行って買物してみることにした。
 片道500m、しっかり歩いて行ける。スーパーに着き、店中に入り、カートを押しながらなら歩いて買物する。カートが杖の代わりになって楽に歩けるし、立ち止まって商品を手に取ってカートに入れるのも出来る。店内で困ったことは特に何もない。ある程度の買物の荷物なら大きめのショルダーバッグに入れて背負って歩いて帰ってこれる。行きと帰りで往復1キロ。大丈夫。僕は買物できる。
 約9ヶ月ぶりのスーパーでの買物は、ものすごくドキドキした。ちょっと心配になってスーパーから帰ってきてすぐに血圧を測ってみたけど、全く何の問題もなく普通だった。一安心。これからもスーパーに買物に行ける。
 ただ、荷物が重くなりすぎると杖で歩いて帰ってくるのは大変。バランスを崩して転ぶのは絶対に嫌だ。痛いし、怪我するし、生卵買ってたら割れちゃう。たくさんまとめ買いはしないで、その時に必要な最小限だけ買って、歩く練習も兼ねてちょこちょこスーパーまで歩いて通って少しずつ買物しよう。
 買物できれば生活できる。スーパーの看板の電飾が希望の光に見える。

 これからアパートで生活するために必要な身の周りの日用品などを、スーパーへ行く度に少しずつ買ってきた。
 ほぼ全ての私物をアパートに持ってきて、必要だと思った日用品を全て買い揃えて、いつでもアパートに帰ってきて生活できる目途が付いた。

 僕はアパートに帰ることを両親に告げた。僕は帰ります。相談ではない決定事項の報告。
 何を言われても反論するつもりだったが、両親の反応はアッサリしていて反対はされなかった。実家で僕がいる部屋から荷物がどんどん少なくなっていくので、何となく察していたらしい。それと、両親にとって重大なことが起こってしまっていた。

 父さんが検査入院することになったそうだ。病院の説明としては、急を要するような重病が見つかったのではないけど気になることがあるので念の為の検査入院。病院の今後の予定とか空きベッド数とかの関係で、出来るだけ早く数日中に入院して欲しいとのことだった。
 父さんが検査入院すれば、車で僕をアパートに送れなくなる。僕が実家を出てアパートに住む理由が増えた。
 両親には申し訳ないが、僕は最高のタイミングだと思った。両親はもしかしたら最悪のタイミングだと思ったかもね。
 僕がアパートに帰る日は、父さんが検査入院する日に決定した。

 そして、ついにその日。
 僕が実家の玄関を出る最後まで両親は「心配だ……」と言っていた。でも、まだやってないことを過剰に心配するのは無駄だよ。やってみなくちゃ分からないし、出来ないことがあったらその時に考えればいい。
 そもそもそんなに心配なら、塩分を抑えた御飯を作ってくれれば良かったじゃん。僕がずっと実家にいたいと思えるような環境にしてくれたら良かったじゃん。僕がお願いしたことを全然やってくれないで心配だけしてこられても、その心配は受け取れない。
 僕は実家を出て、呼んであったタクシーに1人で乗って、出発した。

 アパートに到着。
 僕は、アパートに帰って来た。
 脳出血で倒れてアパートから運び出されて入院してから9ヶ月。
 やっと帰ってこれた。
 帰ってくるべき場所に帰ってきた。
 ここが僕の自分の家。
 本当の退院。

 ただいま。

 今日から一人暮らしを再開。
 昨日までも毎日帰ってきてはいたけど、今日は気持ちが全然違う。
 頭はスッキリ。心は燃えてる。身体は軽い。今なら何でも出来るような気がする。

 午前中は仕事の作業。
 お昼になったので休憩。外に出て、スーパーへ行って今日の晩御飯を買おう。自分で晩御飯を考えて買うのは久しぶりでワクワクする。だけど御馳走を食べるつもりはないし、特に食べたい物もない。でも一人暮らし再開1日目なのでちょっとだけ普段より良いものを食べようと思って、今日の晩御飯は高級な野菜サラダと高級な豆腐にした。それと、ひとつだけお祝いの物を買った。
 あとは、生卵、牛乳、バナナ、など毎日食べたいものも買っておこう。

 夜になり、仕事の作業を終わらせて、テレビを付ける。スマホの連絡やSNSなどを見て、シャワーを浴びてから、晩御飯の準備。そして、テレビでバラエティ番組を見ながら晩御飯を食べる。
 今日はそれに加えて、お祝いの物がある。ビール。9ヶ月ぶりのビール。以前のようにグイグイとは飲めないので、お盆のお供えでよく見る一番小さなミニ缶のビールを1本だけ。
 1人でささやかな祝杯をあげた。
 一口で飲んじゃった。美味しいなぁ。

 ビール飲んで、バラエティ番組見て笑って、楽しくて良い気持ちのまま寝よう。
 ペラペラの敷布団、やけに冷たいシーツ、無限に毛玉が出てくる毛布、謎に丸まってグシャグシャになる掛布団、決して良い布団ではない。でもこの布団がいい。9ヶ月ぶりでも忘れてないこの寝心地。最低の最高の寝心地。すぐに眠れる。

 朝。
 目が覚めて周りを確認する。自分の部屋。ここは自分の部屋だ。当たり前だが、ものすごく嬉しい。

 昨日の夜にセットしておいた炊飯器が炊き上がる。今の朝御飯の分だけ茶碗にいれて、あとはタッパに詰めて冷蔵庫に入れる。これから何日分かの御飯。食べて全部なくなったらまた炊飯器で炊こう。
 朝御飯は、白米と卵と味噌汁。これだけあればいい。最高の朝御飯。
 お気に入りのインスタントコーヒーの瓶を開けて、電気ケトルでお湯を沸かして、コーヒーを入れる。

 コーヒーを飲みながら、仕事の作業を始める。
 お昼には外に出て歩いて、それから昼御飯。
 休憩したら、仕事の作業を再開。
 夜になったら仕事の作業を終わらせて、シャワーを浴びて、晩御飯を食べながらバエラティ番組を見る。
 眠くなったら布団に入って寝る。

 そんな一人暮らし。
 そんな平凡な毎日。

 平凡な毎日は幸せだ。

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