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脳出血入院記(20)2023年4月~ 1人で生きていく

 僕はパソコンを使った仕事を自営業で行っているので、身体が動きづらくても仕事の作業はできる。
 でも、「仕事を依頼してる時に脳出血が再発して途中で出来なくなったら困る」という理由でお付き合いを切られた会社が複数あった。まぁ、相手の気持ちも分かる。仕方ない。でも僕は病院から「今は再発の心配はない」と言われているので、それを伝えてみる。だけどそこで「絶対に大丈夫か?」と念を押されると、僕は「絶対」とは言い切れない。
 絶対に病気にならない人なんて世の中に誰もいないよ。「絶対に大丈夫」なんて言い切る人のほうが危なくて信用できないと思うけどね。でもそんなことを言って反論しても意味ないことを今迄の経験から知っている。疑ってきてる人に反論して言い負かしても相手が納得してくれることはないし、そういう人から仕事を貰っても上手く進まない。だから、そういう人とはお付き合いが切れたらもう追わない。
 入院前に比べて収入は減ってしまい、金銭的には厳しくなっている。そんな中でも以前と全く変わらずお付き合いを続けて仕事をくれる人や、逆に「こういう状況だからこそ」と言って仕事をくれる人もいる。そういう人達の為に頑張って仕事をしていこうと思う。そういう人達のお陰でどうにかギリギリで踏ん張っている。

 転職も考えたが、今の僕はただ身体が動きづらいだけの人なので、雇ってくれる所はないだろう。正直な本心として、手当とか補助金とか貰えるお金があるなら貰いたい。
 市役所に電話して、障害者認定の申請方法について問い合わせてみた。しかし、「かかりつけの病院と相談してください」の一点張りで、何も教えてくれない。
 その後、定期検診で病院に行った時に主治医の先生に聞いてみたら、「おそらく無理じゃないかなぁ」「市役所に聞いてみて」の繰り返しで、相談にもならない。
 もう一度あらためて市役所に電話してみたら、今度は親切な人が対応してくれて、話を聞いてくれた。僕の現在の状況を説明すると、「うーん、それだと、障碍者認定にはならないでしょうねぇ……」「病院が書く診断書の内容次第かなぁ……」とのこと。僕は左腕と左足に麻痺が残ってはいるけど若干は力が入って動かせて、これからまだ回復の見込みもあり、「動きづらい」だけで「全く動かない」わけではない。日常的な動作が出来て誰の助けもなく一人暮らししている。だから障碍者認定にはならないだろう、というような説明だった。
 身体が自由に動けば自分で何でも出来る。身体が動かなければサポートを受けられる。頑張ってリハビリしてどうにかこうにか身体を動かせるようになった僕は、自由に動くことは出来なし、サポートもない。

 脳出血で脳の中にダメージを負った部分は、二度と再生しない。脳出血の後遺症で身体が動かなくなるのは、身体を動かす指令を出す脳の回路の部分がダメージを負って壊れたから。リハビリで身体が動けるようになるのは、ダメージを負った部分が治るからではなく、身体を動かす指令を出す為の回路が脳の中の他の部分に新たに作られるかららしい。
 つまり、僕の脳の中には、ダメージを負って壊れたまま使えなくなった部分が今もあるということだ。これから僕がどんなに動けるようになっても、僕の脳には使えない部分がある。僕の頭の中には永遠に治らない傷がある。何とも不思議だ。
 そういえば、脳に何らかのダメージを負った時には、それがトリガーとなって特殊能力が覚醒する、というのが映画や漫画では定番になっている。でも僕は、何の特殊能力も覚醒しなかった。念力も透視も空中浮遊も瞬間移動もなにも出来ない。
 何年か経ってから覚醒することもあるらしいし、怒りや悲しみが爆発して覚醒することもあるらしいので、まだ望みは捨てていない。特殊能力が覚醒したら障害者認定なんていらない。

 一人暮らしを再開したことを数人の仲良い友人だけに連絡した。
 あと、1年くらい連絡してなくて入院中も退院してからも連絡してなかったけど、ふと思い出して気になった人がいて、久しぶりに連絡してみた。前に勤めていた会社の同僚だった人で、僕と名前が同じで、映画や音楽の好みが似ていたりもして、仲良くなった。頻繁に連絡するような人ではないけど、何かあった時だけ報告し合って、久しぶりに急に連絡しても面倒臭いことにはならない信頼が出来る人。「実は脳出血で入院してました。いや~、まいったね(笑)」なんて軽いノリで久しぶりに連絡してみたら、その人も脳梗塞で入院していたらしい。「名前が一種だとそんなところまで一緒なんですね~」なんて笑いながら連絡を取り合った。
 ちなみに、その人も特殊能力はまだ覚醒していないらしい。

 僕が一人暮らしを再開して数日経った頃に、父の検査入院の結果が出た。特に重大な問題は無かったらしい。身体の中に悪いところはあるけど、すぐに入院して治療が必要な重病ではなく、今まで通り定期的に病院に通えばいいらしい。
 何だかんだ言いつつも心配はしてたので、これで僕も心置きなく一人暮らしできる。

 両親にとって心配事がひとつなくなって、気持ちに余裕ができたのだろう。何かと用事を作って僕のアパートに来るようになった。
 たまに来て会って話すくらいは別に構わないのだが、いつの間にか、来る時に食べ物を持ってくるようになった。そしてそれが、成分が分からなくて塩分を確認できないものだったり、量がものすごく多かったり、片手では食べづらいものだったり、お菓子を持ってくる時もあった。
 僕のほうからお願いしたわけでもないのに、なぜか僕のアパートに来る時には食べ物を持ってくるのが両親の義務のようになってるみたいだ。なぜそうなるのか。気を使ってくれているのかも知れないが、気の使い方が間違っている。どうしてそんなに自分達が用意した物を食べせたがるのか。
 わざわざ持ってくるものを無下に断ったり受け取ってから捨てたりするのは申し訳ないと思ったので、受け取りはして、その上で余りにもダメな時には「こうして欲しい」「こうしないで欲しい」というお願いをした。するとしばらくはお願いした通りにしてくれるのだが、やがてまた元に戻って、僕が食べたくないものを持ってくる。
 僕がお願いしたことを忘れてしまうのか。それとも僕がもう忘れたと思った頃にわざと元に戻してくるのか。

 両親はいつもこうだった。僕が子供の頃からいつもこう。
 僕が何かお願いすると、最初のうちはちゃんと聞いて守ってくれる。でも次第に僕がお願いしたことの解釈の範囲を勝手に広げて、そしてだんだんと曖昧に有耶無耶にして、最終的には僕がお願いしたことはなし崩し的に消えて無くなり、元通りになる。いつも。いつも。いつも。
 子供の頃からずっと気付いていたけど、まぁ仕方ないか……と諦めて妥協していた。僕のその対応も良くなかったのかも知れない。自分の正直な意志を強く主張し続けずに、曖昧にして妥協してしまっていた。
 でもこれから妥協しない。僕の命が懸かってる。この人達は僕の命を守ってくれない。
 食べ物を持ってこられることをハッキリ強く断って、もう何も持ってこないように伝えた。それでも持ってくることがあったが、受け取らずにキッパリと突き返した。そこまでやってようやく食べ物を持ってこなくなった。

 両親が僕のアパートに来る頻度は減ったが、「たまには実家で一緒に御飯を食べよう」と連絡してくるようになった。それもキッパリ断り続けて、ようやく誘ってこなくなった。
 僕は、母さんが作るものを食べない。父さんと一緒に食べない。両親が用意した物は二度と食べない。実家ではもう二度と絶対に何も食べない。実家の温もりを味わう事はもうない。両親と一緒に家族団欒の食事をすることはもうない。永遠の別れ。悲しい。悲しいよ。悲しいけど、もう情に流されたりしない。
 僕は絶対に妥協しない。僕が生きる為に。

 ちなみに、僕は御飯に関して自分ルールとして決めたことがあって、塩分は一日6g以内、一食2g以内が目安。スーパーで買物する時も、御飯を作る時も、食べ物の成分表を常に見て確認している。
 正直に言うと、どうしても食べたい物があって、それの塩分が一食2gを多少なら超えちゃうのは自分で許可してる。食べれなくてストレスを溜めるより、食べてストレスを発散。ただし、その後の御飯で塩分を控えるようにして、平均すれば塩分が一食2g以内になるようにする。
 気にするのは塩分だけではなく、色んなものをバランスよく食べて、特に野菜を意識して多く食べるように心掛けてる。
 たまに「美味しいものを食べれなくて、我慢しなきゃならくて大変だね~」なんて言ってくる人がいるが、僕は無理に我慢しているのではないし、何も大変だと思っていない。
 一人暮らしをしてから、体調が悪くなったことは一度もない。血圧が急に上がったことも一度もない。血圧はずっと正常値の範囲に収まって安定している。食べ物に気を使って塩分の高い御飯を食べていないのと、そうしていることで血圧が急に上がって脳出血が再発する恐怖がなくなり精神的に安心できているのだろう。気持ちも身体もとても調子良い。だから、塩分を控えた御飯はやりたくてやってるのだ。

 4月になり、雪が完全に溶けて無くなったので、運転免許センター(旭川運転免許試験場)に連絡をして、運転の再開について問い合わせた。
 麻痺したのが体の左側だったのが不幸中の幸いだった。右足は全く問題なく動くので、自動車のアクセル・ブレーキの操作は問題なくできる。運転免許センターでテストを受け、合格!
 ただし、マニュアル車の運転は出来なくて、オートマ限定。でも、オートマで充分。

 運転を再開してからもしばらくは、周囲の迷惑にならないように事故らないように練習しながら行動範囲を少しずつ広げて、運転の感覚を取り戻していった。

 そして、最初に遠出して行く場所は決めていた。
 剣淵町のビバアルパカ牧場。
 僕が倒れたあの日に行く予定だった場所だ。

 あの日に途切れた時間がつながった。

 休日には自動車で出掛けて各地の動物園、水族館、牧場などへ行く。
 これからもそれを変えるつもりはない。
 平日の昼間にアパートの周りを歩く練習をしているが、そこに明確な目的が出来た。
 各地の動物園や水族館に行き、1人で園内を見て周る。その為にたくさん歩けるようにする。

 ゴールデンウィークになったら、今期の営業が始まった旭山動物園へ行った。
 両親に連れて行って貰ったことはあったが、そうではなく自分で車を運転して1人で行くことに意味がある。
 正門から入って以前と同じようなルートで歩いて園内を周った。

 あぁ、僕は生きている。
 僕は本当に退院したんだ。
 そう実感できた。

 僕の長い長い入院生活はようやく終わった。

 僕はこれから1人で生きていく。
 僕のことを心から心配して本気で考えてくれる人はいない。この世の中に誰もいない。愛する人も愛してくれる人もいない。1人でアパートに住み、1人で出掛けて、1人で買物に行って、1人でご飯を作って、1人で食べて、1人でテレビを見て、1人で寝る。自分1人で何でも出来なくちゃならない。誰も助けてくれない。誰も頼れない。
 僕は1人で生きていく。
 脳出血が再発しないように気を付けながら、麻痺が残って動きずらい左腕と左足を無理矢理にでも動かして、この頭とこの身体で生きていく。

 病気が完治して、身体が動くようになって、待っていてくれた人達に迎えて貰って、愛する家族と幸せに暮らす。
 そんなラストシーンではない。
 そんなハッピーエンドではない。

 この入院記はこれで終わり。

 だが、僕の人生の物語はこれからも続いていく。
 この入院記が終わるだけ。

 ハッピーエンドではないが、決してバッドエンドではないし、これで打ち切り終了でもない。
 僕は死ななかった。僕は生きている。僕の人生は続いている。
 僕の人生の物語の中のこの章がハッピーではないだけだ。

Life is a tragedy when seen in close-up , but a comedy in long-shot .
人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。

 僕の人生の物語の最後は、ハッピーエンドになる。
 そう信じてる。

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