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詩)1964年のTOKYOオリンピック・円谷幸吉

「私は高校生だったが、『東洋の魔女』の回転レシーブ、マラソンのアベベ選手、敗者に敬意を払ったオランダ柔道のへーシング選手など今も鮮明に覚えている。こうしたことを子どもたちにも見てほしい」菅総理2021年6月9日の党首討論

1964年のあの日 
テレビの画面は1時間以上「走る哲学者」アベベの姿を写し続けていた
2位の選手以下は全く画面に入らない。
アナウンスが日本人が2位で国立競技場にに入ってきたことを告げる

「国立競技場です。円谷の姿見えた。円谷第二位であります。七十七番円谷。そして八番がイギリスのベイジル・ヒートリーであります。ヒートリー、ちょっと差を詰めました。二位か、三位か。銀メダルか、銅メダルか。日本の名誉を掛けて。
日本の円谷、危ない。ヒートリーが追った。ヒートリーが抜きます。ヒートリー抜きました。イギリス抜きました。激しいデッドヒートであります。円谷、どうでありましょうか、あと百メートルの勝負。ヒートリーがぐんぐん差を広げます。その差は、だいたい五十メーターと開いた。今、ゴールインしました。今、円谷、見事に日の丸が振られます。日の丸が揚がります。日本の円谷、疲れました。あらゆる力を使い果たしました日本の円谷、第三位」

円谷は日本陸上界でただ一つのメダルを獲得した。
円谷はみんなの前で 抜かれたことを悔いた。
「メキシコ五輪では日の丸を揚げる。それが国民に対する約束だから」

勝てるはずだ
日本人なら勝つべきだ
自衛隊員なら鍛錬された肉体をいまこそ発揮すべきだ
次は金メダルを目指して進むべきだ
国民の期待にどうこたえるか それこそが君の任務だ
日の丸をポールの真ん中で発揚すべきだ
いまこそ日本民族の忍耐強さ、戦後復興を世界にアピールする時だ
恋愛など二の次だ まず走ること、結果を出すことだ
誰にでもスランプくらいある その壁を一歩ずつ乗り越えてこそ真の選手になれる

「男が一度こうと決めて走り出した以上、どんなことがあっても後を振り返るなんてことを、するじゃねえ」という父の声。

オリンピック開催の年である昭和43年1月9日、わずか28歳の幸吉は自殺
かみそりで右頚動脈を切った幸吉のベッドは、血の海だった
幸吉の直接の上司であった自衛隊体育学校の高長課長は、「ノイローゼになり発作的に自殺したのではないか」と語った


幸吉の遺書
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。
又、いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。
モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません、何卒お許しください。気が安まることもなく御苦労、ご心配をお掛け致し申しわけありません。

tokyo2013年 「7年後の東京オリンピックの出場選手へメッセージ」
・「1964年での選手の活躍がその後の日本を飛躍させたように、2020の選手達も日本の誇りであり希望となるはず。活躍を期待します。(30代男性)」
・「日本を笑顔で埋め尽くしてほしいです!応援してます !(20代女性)」
「生きているうちに地元開催の五輪があるのは非常に幸運な事だと思います。選手生命を賭けるくらいの気持ちで頑張って、日本に明るいニュースを届けてください。(20代男性)」
・「やっとの思いで決定した東京オリンピック開催。どうかたくさんのメダル獲得や新記録達成を目指し頑張ってください。そして、日本全体に夢と希望を見させてください。(10代女性)」


翅のない蝶は
それでも最期の飛行を描く
落下しまた飛び立とうとし
僅かに残った力で
生きようとする
そこに
美しいという価値観は
ない。
夢と希望
それは後から誰かが
理由づけた 


かつてオリンピックという場に

円谷幸吉という 

誠実な一人のマラソンランナーがいた




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