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彼の人生

「どうして飲んだ! あれほど危険だと言ったじゃないか!」

 あまりのことに、一瞬何が起きたのかわからなかった。あの温厚な博士が大声をあげるなんて、とても信じられない。青筋を立てて怒る博士はどこか獣じみていて、おれは本能的な恐怖を覚えた。細くて薄い頭髪も、もじゃもじゃの髭も、やたらと長い眉毛も、おれから見える範囲にある博士のあらゆる体毛は真っ白だというのに、まるで熊と対峙しているかのような緊張感がある。

「すみません…」

 おれは小さく謝った。別にあえてそのように謝罪をしようと思ったわけではないが、かすれて消え入りそうな声しか出なかった。

「いいか、あの薬を飲んだらもう元に戻る方法はない。世界中のどんな病院だって、どんな医者だって、もう君を治せない。もちろん私にもな。君は自分のしでかしたことをわかっているのか?」

 もちろんわかっていた。その薬を飲んだらどうなるのかは他ならぬ博士から聞いていたし、それがどれだけ恐ろしいことなのかも何度も教えられてきた。博士はそれを「この世にあってはならない薬」と呼んでいたが、その言葉の意味するところもわかっているつもりだ。

 それでも、おれは飲んでしまった。試さずにはいられなかった。この薬の存在を知っているのは博士とおれだけだ。おれが口外しなければ、そしてこのままここを去れば、博士にも迷惑をかけることはない。

 博士から受けた計り知れない恩を、助手として少しでも返せるようにと頑張ってきた日々だった。博士の期待を裏切ってしまった心苦しさは当然あるが、けじめはつけるべきだろう。

「これまで、本当にお世話になりました」

 今度はかすれないよう、おれは一文字一文字大切に、はっきりと発音した。

 博士は下唇を強く噛んで震えていた。一切の音を立てることなく、博士は泣いた。涙を拭うことも、鼻をすすることもしなかった。博士は激しく咳き込んでから、おれに最後の言葉をかけた。

「君はもう何があっても死なない。どうしたって死ねない。辛い人生が待っているだろう。それでも私は、君の幸せを願っているよ」

 びしょ濡れの顔をくしゃりとゆがめて微笑む博士を見つめ返してから、おれは深く頭を下げた。

 半年ほどで、自分の体の性質をある程度把握することができた。風邪を引いて熱が出るなど、普通の人と同じく体調が悪くなることがある。喉に痛みを感じたり、鼻がむずむずすることも当たり前にある。深爪した指が痛んだり、珍しく転んで膝を擦りむいたらあまりの痛みに涙が出たこともある。しかしそれ以上のことは絶対にない。命に関わるレベルのことが身に起こると、おれは少しの間気を失い、ほぼ全快して目を覚ます。わざわざ高層ビルから飛び降りたり、通過電車の前に飛び込んだりしてまで確かめたのだから間違いない。絶対に死ねなくなる薬、この世にあってはならない薬の効力は本物だった。

 自分では実験のしようがなく、詳細がわかっていないことがある。老化についてだ。通常のスピードで老いるのか、それともゆっくり歳をとるのか、そもそも老化しないのか。死なないにしても、身体の状態がどう変化するのか、あるいはしないのかによって生き方を変えなければならないだろう。おれが薬を飲んだのは、二十八のときだ。十年もすれば大体わかるだろうが、ほかに方法がないのがもどかしい。

 定期的に昔の知人たちと会うことにした。自分でも気づかない体の変化を指摘してもらえるかもしれないと考えたからだ。もちろん薬のことは誰にも言うつもりはない。

「研究は順調かよ?」

 小倉は言った。博士に拾ってもらって以来会っていなかった一番の友人だ。実家が近く、小学校から高校までずっと一緒だった。大学は別々のところへ進んだが、二人とも実家から通ったためよく会っていた。数年ぶりの小倉はほとんど変わっておらず、身につけているものだけ多少ましになっている。とはいっても、何週間も同じものを着たり穴だらけの伸びきった服を着たりすることを、少なくともおれの前ではやめたようだ、という程度である。

「ああ、順調だよ。君は?」

 こちらの話をしすぎないよう注意を払った。おれの知人に博士を直接知る者はないが、用心するに越したことはない。博士にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないのだ。

「最近西澤のやつがうるさくてさ。節約だの貯金だの、いろいろ口出してくるんだ。でもまあ、なんとかやってるよ」

 彼女への不満を吐露してみせる、という体裁をとりながらも、小倉にはどこか自慢げな雰囲気があった。別に嫌な感じはしない。昔からこういうところがあったな、とむしろ懐かしさのほうが勝る。

 ぽつぽつと昔の話をした。小学校にあった小さな池で、こっそり外来種を育てたこと。中学校の理科室から盗んだ実験器具をネットオークションに出したら、出品したものが二週間後に理科室に戻ってきていたこと。夜の高校に忍び込んだところサッカー部と鉢合わせになり、自分たちにこの学校の覇権を握ることができる時間帯などないと思い知ったときのこと。

「今度遠藤たちと飲むんだ。お前もどう?」

 小倉が出した懐かしい名前に心が躍った。やつらには中学を卒業してから一度も会っていない。

「久しぶりに会いたいな。他には誰か来るのか?」

「ああ。横山も久保も、全員集合だよ」

「それは楽しみだな。もう十年以上会ってない」

「みんなに伝えとくよ。久々すぎてびっくりするだろうな。絶対喜ぶぜ」

 ごく大衆的な酒場で、これといった特徴のない、強いて言えば安さだけが取り柄の料理と酒を喉に通していく。

 大学を出て研究の道へ進んでから忘れていったものを、一つずつ取り戻しているような気がした。博士はおれにネガティブなことばかりを言って聞かせたが、死なないことは決して悪いことばかりではないと思う。こういう時間を、小さな幸せを、普通の人よりたくさん味わえるのだから。

 死なないとはいえ、腹は減る。何か食うには金がいる。というのは建前で、暇を持て余したおれは仕事を始めることにした。友人と食事をするにも金はかかるのだ。死なないからといって仕事もしないのでは、人間らしい生活はできなくなるだろう。何より退屈しのぎになる。

 もし薬を飲んでいなかったら、もっと慎重になっていただろう。仕事選びが人生を左右することだってある。だがおれはいまや、不死身なのだ。時間は無限にあるのだから、なんでもやってみればいい。

 最初に就いたのは、ポケットティッシュを配る仕事だった。おれはろくにアルバイトもしたことがなく、簡単そうな仕事から、と考えたのだ。ところがこれが非常にヘビーだった。どんなに愛想よく振る舞っても、受け取ってくれるのはよくて十人に一人。おれにやりかたを教えてくれた先輩はもっと成績が悪かった。先輩は仕事中ずっとむすっとしていて、話しかけにくい。おれはこの仕事を辞めることに決めた。

 いざ辞めるとなると、不思議とアイデアが湧いてくる。最後の出勤日、おれは歌って踊りながらティッシュを配った。証明できるものは何もないが、あの日のおれは世界中の誰よりも早くティッシュを配り終えたに違いない。

 いくつかの仕事を経て、おれは自分がそれなりに「使えるやつ」であることを知った。どの職場でも平均以上のパフォーマンスを見せた。だが同じ仕事は半年と続かなかった。その一番の原因は、飽きだろう。仕事を覚えてしばらくすると、仕事中だというのに退屈で仕方がなくなるのだ。あくまで金を得るための仕事、と自分に言い聞かせてみてもだめだった。

 あっという間に五年が経っていた。多数の仕事を経験したせいで、どこへ行ってもある程度即戦力になれてしまう。オーナーには喜ばれるが、おれは不満だった。新しい仕事を覚えているときの、思わず没頭してしまう感じが好きだったのに。

 しかし嬉しいこともあった。新しい友達がたくさんできたのだ。どの職場にも個性的な人間が一人はいるのが不思議だ。これまで出会うことのなかった新しいタイプの人間に出会う喜びは、日々の退屈をかき消してくれる。

「研究は順調かよ?」

 小倉に言われて、おれは研究者だったのだな、としみじみ思う。薬を飲んでから十五年が経っていた。小倉はずいぶん前に西澤と結婚していた。子どもも二人いる。別に羨ましくはない。おれだって、三年前に結婚したのだ。

 春香とは、仕事で知り合った。何でもそつなくこなすおれに、先輩だった春香は嫉妬したらしい。仕事には差し支えないような細かなマナーについていくつも指摘し、春香はおれがいかに「なっていない」のかを力説した。それがどうしてこうなったのか、詳しいところは思い出せない。いつの間にか春香との仲は深まり、あれよあれよといううちに結婚していた。まもなく蓮を授かった。

 四十三歳になった小倉の頭髪には、白髪がずいぶん混じっている。最近会うたびに「お前はいつまで経っても若いな」と羨ましがられるが、どうせ小倉のことだから額面通りの意味ではない。あえて染めない白髪を、勲章か何かのように考えているのだろう。

 自分の体についてわかったことがある。おれは普通の人と同じ速度で老いるわけではないということだ。おれの体は、ほとんど薬を飲んだときのままだった。完全に老化が止まっているのか、認知できないほどの遅さで進行しているのかは判別がつかない。

 もうそろそろ、小倉たちと会うのは控えたほうがいいのかもしれない。一緒にいても明らかにおれだけが若すぎて目立つし、何より小倉たちが不審に思うのではないか。

「おい、何考え事してんだよ」

 小倉が口数の減ったおれを小突いた。屈託なく笑う友の顔は晴れやかで、やっぱりおれはこいつのことが羨ましいのだな、と思った。

 色あせたメモを見ながら、おれは数十年ぶりに涙した。薬を飲む前に書いておいたものだ。メモといってもA4のノートにびっしり二十ページほどある。そこには、薬を飲んでからおれの身に起こりうることを思いつく限り記してあった。

 全部、想定内だった。

「小倉はきっと長生きする。が、西澤が死んだらそのあとすぐ逝っちまうに違いない」

「おれは少なくとも一回は結婚する。その相手は聡明で、おれの体のことを受け入れ、支えてくれる人間だろう。もし共に歳をとれたのなら、きっと最期まで穏やかに暮らせるはずだ。しかしおれが歳をとらなかった場合、いつかガタがくるだろう」

「我が子が自分より年上になる」

「我が子が自分より先に死ぬ」

 全部書いてある通りになっただけだ。別になんということはない。あの薬を飲んだのだから、当然の結果だ。

 何度自分に言い聞かせても、涙は止まらなかった。

 思えばおれは、大切な人との死別を薬を飲むまで経験していなかった。親は俺が大学を卒業した直後に少しの金を置いて消えたし、子どもの頃に出た葬式はどれもピンと来なかった。

 出会いの数だけ、別れはある。おれが大切な人たちより先に死ねるのであれば、おれが認識しうる限りでおれの人生は出会いのほうが多いものになるだろう。それはとても貴重で、幸せなことだ。死ぬことのない人間には、別れはきっちり出会いと同じ数だけやってくる。おれにとって、出会いとは別れでもあるのだ。

 引越しをした。薬を飲んでから百七十年と少し経っていた。別の国に住もうと思ったのは、どちらかといえば後ろ向きな理由からだ。このまま同じ国にいても、もう新しいことは起こらない気がした。ごま塩が死んでから新しくできた友達はもう全員死んでしまったし、これから交友関係を広げようにも、おれが歳をとらないことを噂する輩が出てきてしまったせいで思い通りにいかない。逃げるように、おれは国を出た。

 そう、おれはどうやら歳をとらないようだった。薬を飲んだ二十八のときから、外見は何も変わっていない。

 若いうちに薬を飲んでおいて正解だったかもしれない。引越し先の国の言葉が一つもわからないおれを、たくさんの人が助けてくれた。何人かとは友達になった。そのうちの一人とは結婚もした。

 母となったヘレンに抱かれて眠るユーリを見ながら、おれは幸せを噛み締めた。いや、自分は幸せだと必死で思おうとした。本当は、春香と蓮のときと何が違うのか、説明できなかった。これからどのような家庭をつくろうと、みんなおれより早く死ぬ。春香がどこかへ行こうとすると大泣きして嫌がったあの蓮が、あっという間におれよりも老い、最期は自分の名前すら思い出せなくなって死んでいったのを思い出す。ユーリも同じようになるのだろうか。我が子が老衰していく様を見るのは二度とごめんだ。

 ユーリが十七歳になる頃、ヘレンは死んだ。まだ四十になったばかりだった。ユーリはたくさん泣いた。おれも泣いた。次の日ユーリは震える手で包丁を握り、おれに向かって突進した。

「お前のせいだ。お前のせいで母さんは死んだんだ。お前なんか、人間じゃない」

 ユーリは何度も何度もおれを刺した。おれは気を失い、しばらくしてほとんど無傷で目を覚ました。ユーリはもうどこにもいなかった。

 西暦というものは便利だな、と考えながらおれは煙草に火をつけた。長く生きていると自分が何歳なのかわからなくなってくるのだが、簡単な引き算でいつでも正確な年齢が算出できる。今年は三一二五年。ということは、おれはすでに九百年と少し生きている。引き算は簡単すぎるからあえて細かいところまではやらないのが最先端だ。

 煙草をふかしながら、幾度となく考えていることをまたぼんやり考えた。いままで出会った人たちみんな、おれが殺したようなものなのかもしれない。おれと出会わなかったら、もっと幸せな人生だったかもしれない。

 もうずっと、誰とも関わっていなかった。少なくとも三百年は、誰とも喋っていない。すべてが繰り返しに感じるのだ。どんなに素晴らしい人と出会っても、どんなにすてきな出来事が起こっても、おれにとってそれはもう過去の焼き直しでしかない。

 ユーリに刺されたことや、ヴェロニカに殴られたことを思い出す。生きるほどに痛みを感じなくなっていることが悲しかった。体の痛みも、心の痛みも、いつか死ぬという前提のもとに存在していたことを知った。痛みだけではない。喜びも、悲しみも、怒りも、あらゆる心の動きは永遠の命を前に無意味だった。

 「感じる」という行為の意味が気づかぬうちに希薄になっていくのは、とても恐ろしいことだ。この命は永遠なのだから、何も感じる必要などない。そう脳が判断してしまってからのおれは、百年をかつての数分のように消費した。

 人間が絶滅したとき、おれは氷の中にいた。氷河期がまたやってきたらしい、と知ったころには氷の中だった。まあ数千年もすれば勝手に溶けて外に出られるだろう。そのときおれは、どう生きるだろうか。氷が溶けた後の世界はどうなるのだろうか。きっと新しい覇者がこの星に生まれるだろう。人間とは別の生き物に違いないが、おれはそいつらとうまくやっていけるだろうか。いや、できるわけがない。

 もしかしたら、最初は楽しいかもしれない。人間たちとの生活も最初は楽しかったのだ。でもきっとまた同じことだろう。何しろおれには終わりがないのだ。どんなことが起ころうと、いつかはすべて繰り返しになる。

 できればこの氷が溶けないでくれとも思う。おれは、おれを覆う氷と同じ意味しかもたない物体として、何も感じない時間をただ消化していればいい。それはある意味、繰り返しからの解放でもある。この氷に繰り返しという概念はないのだ。

 しかし、結局はどちらでもよいのだった。溶けても溶けなくても、おれの孤独にさほど変化はない。

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